太田述正コラム#8218(2016.2.15)
<米国の「急進的リベラリズム」の伝統(その2)>(2016.6.1公開)
大恐慌に引き続いたところの、その不可避の結果がニューディールだった。
ニューディールは、現在では、コモンセンスのリベラリズムの金字塔として、一般に寿がれている。
しかし、その当時には、全くそんなことはなかった。
1930年代と1940年代には、諸労働組合、農民達、ポピュリスト達、進歩派達、消費者達、テクノクラート達、そして、社会主義者達までも、が、やがて、莫大な政府事業(undertaking)を構成することになる、諸プログラム<の採択>に向けたアジテーションを行った。
巨大な(Gargantuan)連邦インフラの諸プロジェクトには、公有と公計画(テネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority))、政府資金による大量雇用(雇用促進局(Works Progress Administration))、労使関係の規制及び団体交渉諸権利の強化(全国労働関係法(National Labor Relations Act))、及び、退職諸年金の原資への給与諸税(payroll taxes)の義務的使用(社会保障(Social Security))、が含まれていた。
ニューディーラー達は公には決してそうは言わないかもしれないが、彼らは、固い決意の下、自分達の諸プログラムの中に革命的諸提案を盛り込んだのだ。
実際、ローズベルトは、内輪では、「我々がこの国でやっていることは、ロシアでやられた若干の諸事柄<そのもの>だ」、と認めていた。
ヒューイ・ロング(Huey Long)<(注4)>が、ルイジアナ州知事転じて同州選出の米上院議員であった際に、(恐らくは、ローズベルト大統領に対して第三党から立候補して挑戦する目論見の下、)急進的に諸資産を再分配するための「富の共有運動(Share Our Wealth)」を1934年に開始した時、この大統領は自身の再分配計画でもってそれに反撃した。
(注4)ヒューイ・ピアース・ロング・ジュニア(Huey Pierce Long, Jr.。1893~1935年)。「高校を出た後、旅回りのセールスマンとなり稼いだ金でオクラホマ・バプティスト大学に入り法律を学んだ。弁護士となったが政治に関心を持ち大企業攻撃で民衆の人気を得た。1924年にルイジアナ州知事選挙に立候補したが経験不足のために落選。その後の4年間を精力的に遊説してまわり巧みな演説で人々の心を掴み1928年に最年少で当選。その在任期間中、ハイウェイ、・・・道路、・・・橋を建設することにより失業者救済を行なったが、そのために州の赤字が十倍となりまた多くの金が収賄や不正、リベートに消えた。議員を買収して州議会を牛耳・・・った。1929年にはスタンダード石油に重税を課そうとしたためにこれに憤慨した<州>下院によって知事弾劾案が提出されたが買収と脅しで無効にした。1932年からは手下の<人物>を州知事にさせ影から州を支配し、自らは国政を目指して上院議員に当選。フランクリン・<ロ>ーズベルトを支持したが・・・すぐに袂を分かち、「富の共有運動」・・・と呼ばれる大企業が独占した富を<税金を課すことによる>再分配・・・を主張し支持された。しかし、・・・彼の最大の政敵で判事であった<人物>を排除するため州法を改正したためか、医師でペイリーの女婿であった<人物>により・・・ルイジアナ州会議事堂で銃弾を浴び、2日後・・・死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
但し、1935年の富裕税(Wealth Tax Act)・・これは、「金持ち搾り取り(soak the rich)」税としても知られた・・は、一握りのとびきりの高所得者達だけに対して適用される75%にまで所得税を引き上げるという、大部分象徴的なジェスチャーだった。
ローズベルトは、それは、彼が「ヒューイの雷を盗み」、ヒューイをその更なる左翼から出し抜くことを可能にする、と喝破した。・・・
元大統領候補者のアル・スミス<(注5)>・・・は、ニューディーラー達をマルクスとレーニンに準えた。
そして、「首都は、ワシントンかモスクワのどちらか一つしか存在し得ないというもんだ」と警告を発した。・・・
(注5)アルフレッド・エマニュエル・スミス・ジュニア(Alfred Emanuel Smith, Jr.。1873~1944年)。「ニューヨーク州知事に4期選ばれ、1928年<米>大統領選挙で民主党の大統領候補になった。主要政党の大統領候補者としては、初めてのカトリック教徒かつアイルランド系<米国>人だった。選挙では共和党のハーバート・フーヴァーに敗れた。その後エンパイア・ステート会社の社長となり、世界恐慌の時代に建てられたエンパイア・ステート・ビルディングの主唱者となった。・・・
13歳の時に父が死んだ<ために、>・・・高校や大学に通ったことはな<い。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9_(%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B7%9E%E7%9F%A5%E4%BA%8B)
次の世代の改革者達は、はるかに遠くに行くことを望んだ。
米国における革命の真の脅威があったとすれば、それは、ベトナム戦争への答えとして1960年代に生起した。
ニューレフト(New Left)運動<(注6)>は、この戦争を終わらせる努力の一環として、それを米国内に意識的に持ち込んだ。・・・
(注6)「ニューレフトは、主として1960年代と1970年代における広範な政治運動であって、社会的正義について、より前衛的アプローチをとるとともに、労働組合化や社会階級の諸問題に主として焦点を当てたところの、それ以前の左翼ないしはマルクス主義諸運動とは対照的に、教育者達、アジテーター達、その他、が、同性愛者の諸権利、妊娠中絶、性諸役割、そしてドラッグ、といった諸論点に係る広範な領域にわたる諸改革の実施を追求した。
ニューレフトの諸派の中には、労働運動やマルクス主義の階級闘争の歴史理論との関わりを拒絶するものもあった。
もっとも、諸派の中には、毛沢東主義といったマルクス主義の諸変種に傾くものもあった。
米国では、この運動は、ヒッピー運動や、自由演説運動(Free Speech Movement)を含むところの、大学構内における反戦抗議諸運動と連携していた。・・・
フランクフルト学派の批判理論(critical theory)と連携していたところの、ハーバート・マルクーゼ(Herbert Marcuse)は、「ニューレフトの父」と寿がれていた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/New_Left
これらの、時代錯誤的な諸慣行を覆そうとする革命は、最初から末期症状を呈しているように見えた(seemed dead on arrival)。
実際、ニューレフトの崩壊とマクガヴァン(McGovern)<(注7)>の1972年の大災厄的な大統領選挙運動は、その失敗の先触れだった。・・・
(注7)ジョージ・スタンリー・マクガヴァン(George Stanley McGovern。1922~2012年)。「連邦下院議員(1957年~1961年)、連邦上院議員(サウスダコタ州選出、1963年~1981年)。・・・
ノースウェスタン大学で歴史学博士の学位を取得し、母校のダコタウェスレヤン大学の教授とな<ってい>る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3
とはいえ、この蜂起とそれが追求した諸目標は、忘れられることも放棄されることもなかった。
叛乱者達は、やがて文化戦争に勝利することとなる。
彼らは、多文化主義の舞台を設えたところの、「諸権利革命(rights revolution)」<(注7)>、及び、民主党の全国アジェンダに、人種、女性、及び性的少数者(race, gender and sexuality)、を含ませること、の前駆者達となったわけだ。
(注7)最も典型的には、1960年代及び1970年代初期における、市民権や市民的自由を大幅に拡大したところの、最高裁諸判決が出た時代を指す。
http://www.enotes.com/homework-help/what-were-rights-revolution-317418
このアジェンダは、今日に至るまで(、民主党において、)掲げられ続けている。・・・
(続く)
米国の「急進的リベラリズム」の伝統(その2)
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