太田述正コラム#8268(2016.3.11)
<20世紀欧州内戦(その3)>(2016.7.12公開)
 「・・・<実は、>ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)から始まったところの、前世紀の二つの世界大戦群とその間の期間は欧州全域にわたる30年間の「内戦」の期間であったという観念が、<かつては>確立していた。・・・
 トラヴェルソは、厳として、内戦の文化、及び、階級闘争や社会的反対(opposition)のその他の諸形態の増加が、第一次世界大戦の非人間性化的諸経験と合体することによって、いかに、欧州大陸全域において、修辞的かつ現実の、極端な暴力の暴虐的抱懐を解き放ったか、を明らかにする。・・・
 中には、この内戦は1991年及びソ連の終焉まで実際には続いた、と主張する者もいる。
 しかしながら、<先の大戦後、>欧州全域の暴力の水準が指数的に下落するとともに、階級闘争と国家間の諸関係が、どちらも、むき出し(elemental)の諸形態をとらなくなった<以上、この主張は成り立たないだろう。>・・・」(B)
 (3)トラヴェルソの史観総論
 「・・・これらの反全体主義の使徒達に反対して、トラヴェルソは、古の反ファシスト<史観>の諸真実性の再定立に自分自身を任じる。
 暴力的な政治的諸闘争は全て悲劇を伴うとしても、そのうちの若干のものに対して、道徳的評価において、完全に中立である必要はない、と。
 その若干のものが、我々の傾倒(commitment)に値する以上・・。
 仮に、今日、我々が民主主義的で平和な欧州に住んでいるとすれば、我々は、ソ連の共産主義と落ち着かない共謀関係(complicity)の下に置かれ続けるとしても、「それを構築するために闘った者達に対する負債」を我々は負っていることを忘れてはなるまい、と。・・・
 欧州は、この新しい内戦の時代において、トラヴェルソの示唆によれば、16世紀と17世紀の宗教諸戦争と同種(akin)の何かを経験していたのだ。
⇒後でまた取り上げますが、トラヴェルソが、「ソ連の共産主義」に対し、ファシズムに比べて、よりシンパシーを寄せているのは、極めて問題ありとせざるをえません。
 「共産主義」ならば、それなりに理解できるのですが・・。
 いずれにせよ、「16世紀と17世紀の宗教諸戦争」は、カトリシズムとプロテスタンティズムとの間の戦争を名目とする限りにおいて、非生産的なものなのであって、そのどちらかにシンパシーを寄せるに値するような代物では、少なくとも私見ではなかったところ、トラベルソがカトリック側とプロテスタント側のどちらによりシンパシーを寄せているのか明らかにしていない以上、(「同種」の意味にもよるけれど、)彼の、それが20世紀の欧州内戦と「同種の何か」である、との主張には違和感を覚えざるをえません。(太田)
 両者それぞれの側の大義は、単なる国益のそれではなかったところ、聖なる贖罪のイデオロギーだった。
 <だからこそ、>敵は悪魔視されたのだ。
 反ファシズムの歴史を生き返らせる彼の試み(bid)の中で、トラヴェルソは、明確に、自身を左翼と連携させる。・・・」(A)
 「・・・トラヴェルソの歴史学者の役割についての観念は、イタリアのマルクス主義理論家のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)<(注6)(コラム#4326)>のそれ・・「一つの、階級、少数派、ないしは、党」と結び付いたところの、「有機的な(organic)」知識人達という観念・・とは懸隔がある。
 
 (注6)1891~1937年。「イタリアのマルクス主義思想家、イタリア共産党創設者の一人。」トリノ大中退。「労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開。工場占拠闘争をはじめとするトリノの労働運動に積極的に参加。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7
 覇権(hegemony)は、「アントニオ・グラムシがこの用語を多用したことから一般に広まったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9
 というのも、このような類の傾倒は、<歴史学者という>専門職にとって必須(essential)な「批判的自律(critical autonomy)」を損ねる(risk)するかもしれないからだ。
 <その一方で、>彼は、とらわれない(detached)、そして、争いから超越した(above the fray)、という歴史学者の観念もまた拒否する。
 批判的な距離をとることは重要だが、当該歴史学者を彼または彼女の研究対象と結び付けるものは何かについての自覚(awareness)であるところの、「主観性の尺度(measure of subjectivity)」もまた重要だ、というのだ。・・・
(続く)