太田述正コラム#8488(2016.7.16)
<皆さんとディスカッション(続x3040)/対露百年戦争勝利を記念して(その2)–戦間期の日露冷戦(その1)(2016.7.16東京オフ会)>
<太田>(ツイッターより)
 死者が84名に増えたニースでのトラック・テロの犯人はチュニジア系フランス人。
 ある仏上院議員がこういうテロは防ぎようがないと語るも、英治安専門家は英国の諸都市で何年も前から対策が講じられていると指摘。
 独は仏との国境警備を強化した。
 喝だ。
http://www.bbc.com/news/live/world-europe-36799172
<太田>
 関連記事だ。
 <そもそも、Isisは仏を目の敵にしている。↓>
 ・・・One reason that France is a particular target is down to a specific decision by Islamic State to target it. In September 2014, shortly after the beginning of airstrikes by a US-led coalition which includes France, the chief spokesman for Isis, Mohammad al-Adnani, singled out the “spiteful French” among a list of enemies in a speech calling for the group’s sympathisers to launch attacks across the west.
 <米より仏がにくい。米はアブラハム系宗教が根強いが仏は世俗主義の権化だから。↓>
 Undoubtedly, the role France has historically assumed as standard bearer of western secular liberalism has also put the nation in the spotlight. Islamic extremists may see the US as a source of moral decadence and economic exploitation, but France is seen as an atheist power which is both defending western ideals such as human rights, free speech and democracy and, in the eyes of jihadis, trying to impose them on the Islamic world.
 <Isisは、イラクにまで「領土」を拡大する前から仏を標的にすることを決めていた。↓>
 We know from interrogations of Isis returnees that the group started planning strikes in France even before it seized the Iraqi city of Mosul and declared a caliphate in 2014.・・・
 <その仏政府は、ヴェールの禁止等の世俗化、もとい、反イスラム政策、を取って来た。↓>
 Successive governments in Paris have also taken a hard — and much publicised — line on issues such as the wearing of full-body coverings and the veil in public, which has been well noted by Islamic militants.
 <しかも、主としてアフリカの旧仏植民地で反イスラム過激派軍事介入を盛んに行ってきた。↓>
 So has the increasingly prominent French military role overseas. French forces have made a series of interventions in the Islamic world in recent years — in Libya, in Mali, where its troops rolled back one of the most successful Islamic militant offensives outside Syria or Iraq for many years, and of course in the coalition against Isis.
 <仏が抱える大きな問題は、その対テロ機関が分立し、バラバラであること。↓>
 Other reasons for the violence are rooted in grave problems within France itself which have made the nation vulnerable.
Some of these are failings of the fragmented, bureaucratic and still under-resourced security services.・・・
https://www.theguardian.com/world/2016/jul/15/why-does-france-keep-getting-attacked
 <少し前から、Isisは、仏のイスラム過激派にイラクやシリアに来ず、仏にとどまるよう指令。↓>
 ・・・ the unprecedented number of fighters–more than 5,000–that Europe has exported to Iraq and Syria to fight under the banners of ISIS and other jihadi groups. More than 900 of them (including 200 women) have come from France.・・・
 More than 1,000 other Frenchmen are believed to be radicalized but have not gone to Iraq and Syria, and this represents another overlapping danger・・・
 <そもそも、最も対テロ問題が深刻な世界の5カ国中、4か国が仏語国で、うち2か国が欧州にある。仏とベルギーだ。↓>
 French political culture is a counterterrorism problem. They found that “four of the five countries with the highest rates of radicalization in the world are Francophone, including the top two in Europe (France and Belgium).”
 <この両国の問題は、青年層の失業率の高さ。仏特有の問題は世俗化政策と極右の存在。↓>
 Part of the problem are the large numbers of unemployed urban youth, a fertile field for radical recruiting. But part of it is also France’s aggressive secularization programs, which prohibit girls from wearing the veil in school and are considered by many Muslims to be a deliberate attack on their religion. Muslims’ trust in the government and security services is low. Add such a sense of humiliation to a surging far right political movement that constantly blasts Muslim immigrants and citizens, and the conditions for radicalization are strong.・・・
http://www.slate.com/articles/news_and_politics/foreigners/2016/07/france_is_more_vulnerable_than_other_countries_to_attacks_like_nice.html
<太田>(ツイッターより)
 「オバマ米政権が検討する核兵器の「先制不使用」政策を巡り、日本政府が内部で議論を始めたが、「核の傘」弱体化への懸念から反対論が根強く、米側に協議を申し入れている…」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016071501002225.html
 オバマの核政策って、全て、日本に再軍備させる布石とも言えるな。
<太田>
 ところが、次はクリントンが大統領になって元の木阿弥化と諦めてたら、トランプが息を吹き返してきたね。支持率でクリントンをちょこっと抜き返したぞ。↓
 As Clinton stumbles, Trump takes an apparent slim lead in new tracking poll・・・
http://www.latimes.com/politics/la-na-pol-usc-lat-tracking-poll-20160705-snap-story.html
<七氏>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
 創価学会の人のFacebookより転機。旧社会党に変わって自民党のブレーキ役。
 いやー、改憲やるやる詐欺、絶賛継続中だー!「~~~引用(抜粋)~~~
 【安部総理の願う憲法は公明党と衝突】
 3分の2のうち少なくない部分をしめる公明党は憲法を改正する考えはあるかもしれないが、どのようにという点については(平和憲法の改正を長年願ってきた保守層とは)全く異なる見方をしている。
⇒自民党に関して言えば、「平和憲法の改正を長年願ってきた保守層」なんてウソだからね。
 なお、公明党に関する関連記事だ。↓
 「改憲「民進が『ダメ』というものはダメ」 公明・斉藤氏・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASJ7H7DH0J7HUTFK018.html?iref=comtop_8_06 (太田)
 政界の要人らによれば、このことは現政権においては9条の戦争放棄の条項の改正のチャンスはほぼ無いことを意味するとのこと。
~~~引用終わり~~~
 フィナンシャルタイムズの記事。
 まったくそのとおり。
 購読していないと読めないですが、記事ごとに贈呈という仕組みがあるのでご興味ある方はお知らせください。
~~~引用(抜粋)~~~
 (日本会議から総理に様々要求があるだろうが、)現実に安倍総理に何ができるかは、創価学会から全面的に支援を受けている公明党次第。
 創価学会は戦時中に軍部政府より弾圧を受けており、この歴史が彼らが政治に参加する理由の一つでもある。
 彼らの幹部はこう述べている。
 「プロセスを急ぐ必要は全くなく、むこう3年間で合意が出来なければさらに議論を続けるべきだ。」
 安倍総理は、「連立を組む相手がこの圧倒的多数を安倍総理自身が思っているのと同様に千載一遇の憲法改正のチャンスと思っている」などと捉えるべきではない。
~~~引用終わり~~~
 記者の方、
 フラットに書いてくださっていると思う。」
https://next.ft.com/content/ee27717a-48d2-11e6-b387-64ab0a67014c
⇒自民党「タカ」派が、党外「ハト」派の社会党が衰退し、党内「ハト」派まで弱体化したため、今度は、その中間形態である連立関係に「ハト」派の公明党を引きずり込んだ、という側面もあることを指摘しておきたい。
 (9条の改正「阻止」もさることながら、つい最近、集団的自衛権行使の一部解禁を更に骨抜きにするのに「協力」したのが公明党だった。)
 日本会議に集う人々は、大部分「タカ」派ならぬ真正タカ派だ、と信じたいところだが、上記のことにいつまで経っても気付かないとなると、ひょっとして彼らの多くも実は「タカ」派じゃないのか、気付かないフリをしてるだけじゃないか、と勘繰りたくなってくるよ。↓
 「・・・日本会議会長の田久保忠衛・杏林大名誉教授は7月13日、・・・記者会見し、改憲について「絶好のチャンスを迎えた。私が安倍(晋三首相)さんなら、任期内に全力を挙げて実現したい」と<語ったが、>・・・田久保さんがお飾りでしかないことがよくわかった記者会見でした。最後に、田久保さん、「私は、日本会議のこれまでの主張をつまびらかに知らないが」って言っちゃったもんw・・・」
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/13/nihon-kaigi_n_10962564.html (太田)
<zoOYfvKA>(同上)
 ポケモンGO 米国人にメートル法を認知させる快挙
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1999.html
 こんな形でメートル法を認知させる事になるとはな・・・。
⇒米国は、ロシアなんて霞んじゃうような、国際法、国際ルールの蹂躙国だってことをお忘れなく。(太田)
<七氏>(同上)
 いいね~~~~。ソフトパワーか?!
 ・・・
 あーあ~~。だーめだ、こりゃ。
 「トルコでクーデターか=軍が展開、群衆に発砲も―「権力掌握」と宣言」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160716-00000007-jij-m_est
<太田>
 それでは、その他の記事の紹介です。
 君側の奸どもめ。↓
 「天皇陛下、早期退位想定せず 公務「このペースで臨む」・・・」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016071501002386.html
 「【「生前退位」ご意向】菅義偉官房長官、皇族の減少「早急に対応」 生前退位の検討は否定・・・」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%90%e3%80%8c%e7%94%9f%e5%89%8d%e9%80%80%e4%bd%8d%e3%80%8d%e3%81%94%e6%84%8f%e5%90%91%e3%80%91%e8%8f%85%e7%be%a9%e5%81%89%e5%ae%98%e6%88%bf%e9%95%b7%e5%ae%98%e3%80%81%e7%9a%87%e6%97%8f%e3%81%ae%e6%b8%9b%e5%b0%91%e3%80%8c%e6%97%a9%e6%80%a5%e3%81%ab%e5%af%be%e5%bf%9c%e3%80%8d-%e7%94%9f%e5%89%8d%e9%80%80%e4%bd%8d%e3%81%ae%e6%a4%9c%e8%a8%8e%e3%81%af%e5%90%a6%e5%ae%9a/ar-BBumO3X?ocid=iehp
 中共に係る、日本での記事だ。
 モチ、ボーゲル本は習ちゃんの意向を受けて出版されとるのさ。↓
 「・・・『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が、刊行から40年近くが経過した今年、中国で翻訳出版され、爆発的に売れ行きを伸している・・・
 著者のボーゲル氏本人が新たにコメントを寄せているので、さらにびっくりした。
 そこには、こう書かれている。
 「かつてこの本が出版されたとき、シンガポールや台湾、韓国、中国の読者は日本の経験を参考にして、自らの現代化の助けにしようとした。35年後のいまも、人々はこの本が人々に自分の国家をどう改善すればいいか考える手助けになっている」
 またボーゲル氏は、日本はその後バブル経済の破綻によって成長のスピードは落ち込んだものの、「日本には、いまも学ぶべきところがある」として、日本の所得格差の少なさや政治が比較的クリーンなところ、健康保険の普及、犯罪率の低さ、人々の礼儀の正しさ、生活環境の清潔さなどを挙げている。
 「内容そのものは決して古くなっていない」
 上海訳文には、私も本を出したことがある関係で知り合いが何人かいるので、スムーズに担当編集者にアクセスすることができ、中国のSNSアプリ「微信(wechat)」で日本から取材させてもらった。
 編集者によると、同書は4月に初版1万5000部でスタートしてすぐに売り切れ、現在すでに3回増刷を重ねて4万部を発行しており、さらに7000部を増刷しているという。中国の書籍の市場規模は、日本に比べて人口は圧倒的に多いものの、実際のところは日本の2~3倍ぐらいの感覚で考えればいい。その意味でも、相当のヒット作だと言うことができる。
 編集者は、今回の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』ヒットの理由をこう読み解いた。
 「40年近く前の日本のことを書いていますが、内容そのものは決して古くなっていないので、出版を決定しました。この本のもとのサブタイトルは『米国への教訓』でしたが、現代の中国人にとっても読む意義のあるものだと考えたからです」
 「日本社会は高度に発展し、成熟した社会です。中国経済の発展はいま、環境問題や治安、福祉など多くの課題と向き合う段階に入っており、日本の経験は中国にとって参考にすべきものが多いのです。
 また、もともと中国人は日本のことにとても関心があり、留学や観光、仕事で訪問する人も増えており、日本というテーマは中国でいつも読まれます。中国の読者の読解力も上がっているので、この間の時代の変化はしっかり汲み取りつつ、日本という近代化のお手本から何を学ぶべきか考えてもらえる本だと期待しています」
 実際、日本関係の書籍は、現在中国でかなり大きなマーケットを築いている。これはしばしば指摘されることだが、日本における嫌中書籍の大流行のような現象は、中国においては見られない。書店に並んでいるのは比較的中立的で、日本から知識を得ようというタイプの日本論が多い。
今の中国に必要な「成長後」の智慧
 もちろん、あからさまな反日書籍は、中国政府の事前審査で恐らく引っかかってしまうので、そもそも出版しにくいという面はある。しかしそれ以上に、中国においては、尖閣問題や南シナ海問題で日本との対立局面が続いているとはいえ、一般社会のポジティブな対日関心度は決して低くなく、むしろ高まっているということである。
 それは恐らく出版社の編集者が指摘するように、中国社会の発展段階が、一つの曲がり角に差し掛かっていることと関係しているだろう。中国の経済成長が鈍化し、過度の都市化による環境問題の深刻化、貧富の格差の解消の遅さなど、多くの「成長後」の問題にいま直面しようとしている。
 そのなかで、日本の明治維新後の近代化や戦後の高度成長から中国人は多くを学んだように、いまの中国は「成長後」についても日本から智慧を求めようという状況にある。中国で、日本の生活や社会制度、教育なに関する書籍がよく売れるというのもこうした背景がある。・・・」
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/40%e5%b9%b4%e5%89%8d%e3%81%ae%ef%bd%a2%e6%97%a5%e6%9c%ac%e7%a0%94%e7%a9%b6%e6%9c%ac%ef%bd%a3%e3%81%ab%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e4%ba%ba%e3%81%8c%e7%be%a4%e3%81%8c%e3%82%8b%e3%83%af%e3%82%b1-%e3%81%aa%e3%81%9c%e4%bb%8a%e3%81%ab%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%a6%ef%bd%a2%e7%88%86%e5%a3%b2%e3%82%8c%ef%bd%a3%ef%bc%9f%e4%bb%95%e6%8e%9b%e3%81%91%e4%ba%ba%e3%82%92%e7%9b%b4%e6%92%83/ar-BBulof5?ocid=iehp#page=2
 では、いつもの中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群であるよ。↓
 <まず、当局によるもの。↓>
 「・・・捜狐はこのほど、「中国人留学生の目に映る日本はどのような国か?」と題する記事を掲載した。
 記事がまず挙げたのは、日本人が「問題に遭遇するとまず謝る」ことだ。例として、「エスカレーターに乗っている際、不注意で他人にぶつかってしまった時は、日本人はすぐに謝ると紹介した。日本人であれば、ごく当たり前の行動だが、中国人がわざわざ言及するのにはそれなりの理由がある。
 中国人は責任の所在が明確でない時は謝らない人が多い。むしろ、自分に落ち度があっても謝罪しない人もいるほどだ。これは謝罪することで自分の責任が明確になってしまうことを嫌うためとの見方がある。日本人は自分に落ち度なくとも謝る人が多いなか、こうした態度は中国人からすれば不思議なのであろう。
 また記事は日本では「多くの若い女性が喫煙している」と紹介し、日本には女性向けのタバコやライターケースなども存在することを紹介した。中国では男性の多くが喫煙者だが、女性の喫煙者は多くない。中国人の目には日本人女性の喫煙習慣が驚きなのだろう。
 そのほかにも、日本全国で多くの商品の価格が統一されていることも驚きだと伝えている。例えばタバコは日本全国のどこで購入しても同一金額だが、中国では店によって値段が違う。また、日本人が時間に厳しいことも中国人留学生にとっては驚きのようで、「何をするにも前もってスケジュールを立て、そのスケジュールを厳守することが求められる」と紹介している。」
http://news.searchina.net/id/1614304?page=1
 「・・・人民網はこのほど、ロボット革命は日本経済にどのような影響を与えるかという問いを提起、現在得ることのできる予測について紹介している。
 記事は「日本経済が直面する最大の問題の1つは労働者の減少である」と説明、そして「日本はロボットにより労働生産性を向上させ、同時に生産年齢人口の減少と設備投資不足の二大問題を緩和しようとしている」と指摘した。
 一方で、ロボット革命による狙いについて「楽観視できない」と主張し、その理由として「人口減少による経済へのマイナス影響は生産側と消費側の両面に生じるが、ロボット技術の進歩は生産側に生じるマイナス影響を抑える作用しかない」ことにあると指摘、また「ロボットとAIの普及は必ず失業の増加を招く」という点も楽観視できない理由の1つとの見方を示した。」
http://news.searchina.net/id/1614245?page=1
 <久しぶりに官民合作のもの。↓>
 「・・・先週金曜日から放送が始まった、舌で物質の成分を分析できる特殊能力を持つ主人公が事件を解決していく日本のミステリードラマは、人気俳優の起用で期待されていたが、第1話の視聴率が低迷し日本では大きな注目を集めなかった。ところが、中国メディアの多くが取り上げ、ネットで話題を集めている。
 第1話で中国人観光客に関するシーンが多く描かれ、その多くが「中国人のマナー違反を風刺している」として中国では話題を集め、ネットで怒りの声が寄せられている。劇中では、川に死体が上がり、警察が規制線を張る側で、中国人の中年女性2人が自撮りに夢中になっていたり、主人公が温泉地で飛び交うホタルを鑑賞していると、中国人グループが突然現れ、われ先にと虫籠にホタルを捕獲したりするシーンが相次いで登場した。
 このドラマについて中国の外交学院国際関係研究所の周永生(ジョウ・ヨンション)教授は、「中国の印象を損なう描写は日中両国の民間交流に影響を与える」と批判しており、ネットではドラマのボイコットを呼び掛ける声も上がっている。
 日本のテレビ番組に関しては、5月に放送されたバラエティー番組が反中的だとして物議を醸した。この番組では中国の社会問題やマナー違反などが取り上げられていた。今回のドラマに関しては、ドラマや日本に旅行する中国人観光客に対する批判が圧倒的多数だった。一方で、「日本に行く中国人観光客にマナー違反が見られているのは事実だ」「中国人はガラスのハートの持ち主が多いな。テレビドラマはエンターテイメントなんだから笑い話としてとらえるべき。日本を警戒する必要はあるが、大げさに騒ぐ必要はない」「別に大したことではないだろ。中国だって長い間(抗日ドラマで)日本のイメージを損なうようなことをしている」といった中立的なコメントも寄せられた。」
http://news.livedoor.com/article/detail/11769164/
 やっぱ、VW等とEU当局はつるんでいた。↓
 Diesel Emissions: EU Commission Has Known for Years about Manipluation・・・
http://www.spiegel.de/international/business/commission-has-long-known-of-diesel-emissions-manipulation-a-1103249.html
 インドでマサラ・チャイが誕生するまでの世にも恐ろしい物語・・悪逆非道のイギリスめ・・が載っている。↓
http://www.bbc.com/news/world-asia-india-36781368
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–対露百年戦争勝利を記念して(その2)–戦間期の日露冷戦(その1)–
1 プロローグ
ディスカッションは、主として日々の出来事を追うものであり、有料読者向けコラムは、主として内外の著書を取り上げるものである、つまりは、世の中の流れや他人の言説の紹介とコメントが中心であるのに対し、オフ会での「講演」は、主として私の考えを述べるためのものであり、この3つは有機的に関連し合っており、どれが欠けてもよろしくない、と考えています。
 そこで、半月以上入院したにもかかわらず、延期したオフ会を早期に開催することにしたのですが、やはり、体力の回復が完全ではなく、従って集中力もイマイチの感があり、結果としては、意気込みに反し、余談中心の、しかも序論的な「講演」になってしまったことを最初にお断りしておきます。
 「1937年・・・年7月に日支戦争が始まると、10月に、法王庁<が>、「全世界のカソリック教会および伝道所に・・・「今回日本の直接の関心は共産党勢力の浸潤駆逐に他ならないから」日本軍の支那における反共聖戦に協力すべしとの趣旨で・・・日本の文明擁護の意図を支那が諒解の必用あることを説き、同時に外蒙よりする凶暴なる影響を駆逐すること。・・・共産主義の危険が存する限り遠慮することなく日本を支援すべきこと。・・・日本軍当局に対しカソリック教会の立場は全然日本との協力にあることを徹底せしめること。」・・・等<の回勅>を指令した」(コラム#5412)ことを、若干古参の太田コラム読者であればご存知のことと思います。
 その折、私は、「これは、ピオ11世や(将来の)ピオ12世らは、支那等のカトリック組織を通じて、日支戦争が、文明と非文明、自由主義と共産主義との戦いであることを、中国国民党政府が赤露のフロントであるとの認識の下、精確に見抜いていた、ということであり、この時点で、日本と法王庁は、同盟関係、しかも価値を共有する同盟関係、に入ったと言っても過言ではないでしょう。とにかく、日本の東アジア政策、就中対支政策は、(横井小楠コンセンサスに則り、)ロシア、改め赤露抑止を目的としたものであることを、真正面から認め、日支戦争において日本の全面的支持を表明したところの、全球的宗派、というより、有力な欧米の主権国家・・カトリック教会・・があった、ということを、我々は決して忘れないようにしようではありませんか。」(同上)とコメントした次第です。
 本日の私の「講演」は、その後の私の、共産主義(マルクス主義)理解の「深化」等を踏まえ、「自由主義と共産主義との戦い」という部分は、「人間主義とスターリン主義との戦い」とすべきであった、と申し上げるためのものでもあります。
 さて、これまた、若干古参の太田コラム読者であれば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして、マルクス主義が、いずれも、農業社会化以降において、人類が人間主義社会への回帰を目指して生み出したイデオロギーであって、その方法論・・それぞれ、選民のみ人間主義化、利他主義により全人類を人間主義化、武力で全人類をイスラム教化し喜捨を強いることで人間主義化、独裁権力下での生産力強化により人間主義化・・において、いずれも誤っていた、ということもお分かりいただけることと思います。
 それぞれの方法論の「誤り」について、詳細な説明をしたいところではあるのですが、それを始めたら、それだけで「講演」数回分になってしまうので止めますが、イランとロシアは、イスラム教と共産主義を、それぞれ自分の国の勢力圏の維持拡大のための道具として用いるべくカスタマイズした・・その後ロシアはそれを止めたけれど、年季の入っているイランは今でも止めていない・・という特異性において共通しています。
 申し上げるまでもなく、前者はイスラム教(スンニ派)をシーア派、後者は共産主義をスターリン主義、という形にカスタマイズしたわけです。
 私見では、シーア派は結果的にイスラム教のおぞましさを緩和したのに対し、スターリン主義は結果的に共産主義のおぞましさを募らせたのです。
 法王庁もまた、スターリン主義について、そのように考えたに違いない、と私は想像しているのです。
 (現在のイランの「神政」政治についても、法王庁は私と同じように考えている、と思いたいところです。)
 そんな法王庁が、当時、反スターリン主義に限定することなく共産主義一般を敵視したのは、当時まだ「スターリン主義」という言葉が必ずしも国際的に確立していなかった(注1)こと、ロシア以外の諸国において共産主義を標榜する諸団体の多くが、コミンテルンという、ロシアの国際別動隊の支部的存在に位置づけられていたこと、等からでしょうね。(注2)
 (注1)「スターリニズムまたはスターリン主義・・・とは、1924年から1953年まで・・・ソ連・・・の最高指導者を務めた・・・スターリンの発想と実践の総体で、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な対外政策、秘密警察の支配を背景とした恐怖政治や大規模な粛清などを特徴とする全体主義を指す。また、それに通じる思想・体制である。・・・
 <この>用語<を>スターリンやソ連の政権およびコミンテルン系譜の世界各国の共産党が自称した事は無い。トロツキーおよびトロツキズムの支持者(トロツキスト)によってはじめて規定された呼称・用語および概念であり、後にはローザ・ルクセンブルクの支持者も使用した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
 (注2)戦後のイタリア共産党の軌跡から窺えるところの、法王庁の共産主義そのものに対する好意的姿勢は興味深い。↓
 「1944年にに亡命先のモスクワから戻ったトリアッティ(トリアッチ)は、反ファシズムの立場でイタリア再建のために、戦後のイタリアで1945~46年の連立内閣に参加した。トリアッティの指導するイタリア共産党は1947年にはコミンフォルムに参加したが、一方で保守政党のキリスト教民主党の支持基盤である教会組織に対抗できる民間組織の育成に努め、そのなかでソ連とは一線を画した柔軟路線を歩むようになり、構造改革論を展開した。
 1973年には書記長ベルリングエルはいわゆる「ユーロ=コミュミズム」といわれる現実路線をすすめ、カトリック勢力との「歴史的妥協」をなしとげ、キリスト教民主党などとの大連立内閣を模索したが失敗に終わり、91年のソ連の解体の余波によってイタリア共産党も分裂し衰退した。」
http://www.y-history.net/appendix/wh1601-046.html
 
 (以上のような私の想像が正しいことを誰かが検証してくれると有り難いのですが・・。)
 ちなみに、「カール・ウィットフォーゲル<・・カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(Karl August Wittfogel。1896年~1988年)は、ドイツで生まれアメリカに帰化した社会学者、歴史学者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB ・・>はアジア諸国の制度の研究から「東洋的専制主義」の概念をつくり、これを適用してスターリニズムを説明しようとした。実際、西側諸国では地理的にも政治的にも民族的にも旧ソ連は<欧州>とは異質の存在(東方正教会文明)とされ、ユーラシアや北アジアと扱われた。また、孫文の大アジア主義はソ連をアジアの国としている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0 上掲
のですが、「旧ソ連<(ロシア)>は<欧州>とは異質の存在」まではともかく、「東洋的専制主義」論などという主張に対しては、欧州のファシズム、就中ナチズムは「西洋的専制主義」ということになるのか、それは「東洋的専制主義」とどんな風に違うのか、と茶々を入れたくなってしまいます。
 なお、これも覚えておられることと思いますが、法王庁は、第二次世界大戦が始まった頃から、ナチズムの方をスターリニズムよりも更に危険視するに至ります。(コラム#5412)
 これは、ナチズムが、スターリン主義とは違って、「人間主義社会への回帰」、より一般的に言えば普遍的価値の追求、とは無縁(注3)の、むき出しのアーリア(ドイツ)人種至上主義を標榜していたからであろう、と見たらいかがでしょうか。
 (注3)「ゲッベルス<は、>「ナチズムは個別の事柄や問題を検討してきたのであって、その意味では一つの教義を持ったことがない」と述べている・・・
 <ナチス>幹部達<は>、当時流行していた人種学に基づくドイツ民族による民族共同体(・・・Volksgemeinschaft)の思想と、反ユダヤ主義、そして唯一の指導者が指導者原理に基づいて行う指導体制がナチズムの根幹であることを強く認識していた。・・・
 <そして、>ナチズムはドイツ民族のためにのみ生み出されたもの・・・であり・・・決して輸出品とならない」思想であるため、人類普遍の法則とは考えられなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%BA%E3%83%A0#cite_note-5
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[法王庁の支那情勢認識の限界]
 汪兆銘政権のウィキペディアには、「汪兆銘政権–「政府発足後にイタリアやタイ、フランスのヴィシー政権や満州国などの枢軸国やバチカン[・・1942年に中華民国として国家承認した・・]などが国家承認した。 ・・・ドイツは、蒋介石政府軍事顧問だったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンの意見を採用し、日中戦争では日本が敗北すると見ていたため、承認を躊躇し、承認したのは1941年7月になってからだった。ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、スペイン、クロアチア、ブルガリアも国家として承認した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
とあるが、法王庁が、「中華民国として国家承認した」のは汪兆銘政権ではなく蒋介石政権であり、1943年1月に同政権から謝壽康(Shou-Kang HSIEH)が特命全権公使として法王庁に派遣され、1946年9月まで務めている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_XII 前掲
http://web.roc-taiwan.org/va_en/post/9.html
 ちなみに、「日本がバチカンと正式な外交関係を樹立したのは1942年で、このとき相互に公使館を設置し」ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3 ([]内も)
 法王庁の、日支戦争における日本支持/日本との外交関係樹立と、蒋介石政権との外交関係樹立が、いかなる情勢認識と論理の下に行われたかについても今後の研究課題としたいが、さしあたりは、日本の敗北を見越した法王庁が、蒋介石政権が戦後の支那を統一すると読み間違え、(恐らくは)布教の自由の保証を取り付けた上で、同政権との外交関係樹立という苦渋の選択を行ったと見たい。
 ところが、実際には共産党政権が戦後の支那を統一したのであり、法王庁は、大きなミスを犯してしてしまったことになる。
 (換言すれば、法王庁は、支那情勢認識において、日本、就中帝国陸軍の域・・「帝国陸軍は、共産主義が目指す理想に共感を覚えつつも、ソ連の共産主義(スターリン主義)と、支那、ベトナム、インドの共産主義とは別物であると見ていて、前者は敵視する一方、後者中の支那、ベトナムの共産主義者達とは事実上の、そして、ボースのケースに至っては、名実共の提携を行ったのである、と思うのです。」(コラム#8273)・・例外が、概ね赤露の手先として終始したマラヤの共産主義者達。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A・・にまでは達していなかったということ。 
 恐らく、中国共産党地区へのカトリック教会関係者の訪問ないし潜入ができず、共産党関係の情勢掌握ができなかったためではなかろうか。)
 仮に、蒋介石政権と外交関係樹立をしていなかったとしても、そして、共産党政権と外交関係樹立をしていたとしても、中共当局が布教の自由や叙任権を法王庁に認めることはなかっただろうが、少なくとも、現時点においてなお、歴史認識に関して、(対日本同様、)中共当局の敵意の対象にされ続ける
https://sg.news.yahoo.com/church-china-communists-vie-over-french-missionary-062433900.html?nhp=1
(7月11日アクセス)
ようなことはなかったことだろう。
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2 戦間期支那をどう見るか
 (1)基本的な見方
 以上のように、私は、法王庁は、戦間期の支那を、人間主義/日本とスターリン主義/赤露の冷戦下の戦域と見た上で、人間主義/日本、の側に立つことを積極的に宣明した、と見ている次第です。
 そして、その法王庁は、蒋介石政権を、スターリン主義/赤露、の傀儡ないし別動隊とみなした、と見るわけです。
 この私の見方が正しいとすれば、戦間期の支那観に関し、法王庁のそれは、日本、とりわけ帝国陸軍のそれとほぼ一致していた、ということになります。
 (一致していなかったのは、法王庁が、日本、とりわけ帝国陸軍とは違って、中国共産党の、人間主義/日本志向性、に気付いていなかった点だけだ、ということです。)
 
 ところで、支那の域内・域外勢力どころか、(バチカン市国を除き)領域的勢力ですらない法王庁が、戦間期の支那情勢の基本を的確に把握することがどうして可能であったのでしょうか。
 かねてから、私が、天皇制・・天皇元首制・・がかくも長期間にわたって日本で存続することができたのは、大部分の歴代天皇の内外情勢判断能力が傑出していたからだ、と申し上げてきたことを思い出してください。
 同じようなことが、力点が個人と組織という違いはあれ、法王庁についても言えそうです。
 ローマのキリスト教会が、キリスト教における最大の宗派の地位を確立したのは、まだ西ローマ帝国が存在していた頃まで遡ると考えられる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%88%86%E8%A3%82
ところ、現在でもカトリック教徒が(世界最大の宗教である)キリスト教の教徒の約半分を占めている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
のは、同教会組織をあげて、世界各地の情勢を的確に把握しつつ布教と教勢維持に努めてきた賜物でしょう。
 ですから、そんな法王庁の戦間期の支那情勢認識が、正鵠を射たものであったとしても、決して不思議ではないのです。
 実際、支那に関しても、元の時代のフランシスコ会(カトリック)の布教も16世紀の明末に始まるイエズス会(カトリック)の布教も、後者においては清が禁教政策を続けたこともあって、結局失敗に帰した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
ものの、1576年にマカオに置かれたところの、法王庁直轄の司教座は維持され続け、支那での情報収集努力は細々とした形であれ、続けられたのであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%82%AA%E6%95%99%E5%8C%BA
法王庁は、支那情勢と併せ、ロシア情勢(注4)についても、日本の情勢(注5)についても、的確に把握していたはずなのです。
 (注4)法王庁は、帝政ロシア、ソ連時代のいずれにおいても非合法化されていたところの、ウクライナ東方カトリック教会を始めとする東方典礼カトリック諸教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E5%85%B8%E7%A4%BC%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%9D%B1%E6%96%B9%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A
を通じてロシア/ソ連情報を把握していたはずだ。
 (注5)1873年(明治6年)にキリスト教禁止令が解かれた。
 戦間期日本におけるカトリック教会の活動状況は下掲参照。
 「なお、<日本本土での>1940年の登録信者数は119,324人・・・2001年時点<の日本>で<も>・・・44万人」にとどまる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
 日本では、現在、「プロテスタント系大学(キリスト教学校教育同盟)が56大学、カトリック系大学(日本カトリック学校連合会)が20大学を数える」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E7%B3%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6
が、カトリック系大学の中には、上智大学(創立1928年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%99%BA%E5%A4%A7%E5%AD%A6
聖心女子大学(創立1948年。但し、前身は1916年創立の聖心女子学院高等専門学校))、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BF%83%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%AD%A6
南山大学(創立1949年。但し、始まりは1932年創立の旧制南山中学校)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E5%AD%A6
といった、戦間期にルーツを持つ有名大学群が含まれている。
 キリスト教徒が少数派の他国における状況との比較が必要だが、少ない信徒数に比しての、(プロテスタント系や聖公会系についても言えるが、)日本への思い入れの深さが見て取れる。
 その背景には、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのカトリック信徒の激増と弾圧の記憶、1865年における隠れキリシタンの長崎での「発見」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2 前掲
の感動、及び、日本人の人間主義性への驚嘆(私の想像)、があったのではなかろうか。
 (2)その二つの系たる視点群
 では、日本と法王庁以外の、支那における諸アクターの目にはどのような風景が映っていたのでしょうか。
 
 ここで、上述の基本的な見方の系としての、二つの視点群であるところの、「東アジアにおける親日・親ソスペクトラム」、及び、(それと裏腹の関係にある)「蒋介石・左右排撃戦略」、を仮説的に提示したいと思います。
 ●東アジアにおける親日・親ソスペクトラム
 一番目の視点は以下のようなものです。
 まず、1、国民党左派(汪兆銘)–2、中国共産党(毛沢東)–3、国民党右派(蒋介石)–4、赤露派中国共産主義者達、という、このスペクトラムの主要骨格を頭に入れて下さい。
 人間主義/日本対スターリン主義/赤露、という通奏低音に立脚しているところの、支那におけるこのスペクトラムは、第一次世界大戦後から、(この「講演」の対象外ですが、)実に戦後冷戦の終焉に至るまで、一貫して変わらなかったのであり、変わったのは、(若干のねじれが生じた朝鮮戦争時・・後でその理由を説明する・・を除き、)対立軸の位置(v.で表示)だけだった、というのが私の着意です。
 その上で、主要域外関係国たる米英と独をこのスペクトラムに書き加えて見ると、下掲のような感じかな、といったところであり、これら諸国の右往左往ぶり、定見のなさ、無責任ぶり、が浮き彫りになってきます。
 (興味深いことに、米国は、「序章」ではまだ登場していなかったけれど、「本章」に入ってからは、少なくとも表見的には、英国とほぼ同じスタンスを取り続けた・・より正確には、英国が米国とほぼ同じスタンスを取り続けた・・ので、「米」でもって「米英」を簡易表示させた次第です。
 いずれにせよ、私に明らかな事実誤認がある、等にお気づきになった方はご教示いただければ幸いです。)
I  前史——–序章(25年~): 英    日 v. 1、2、3、4、露   
        本章(27年~):     日 v. 1、2、3、4、露 独 米 
II 日支戦争—-前半(37年~):     日 v. 1、2、3、  露 独 米
        後半(40年~): 独    日 1、2 v. 3   露 米
III 太平洋戦争–       : 独    日 1、2 v. 3   露 米 
IV 戦後——–国共内戦   :(米)   (日) 2 v. 3     (露)
        朝鮮戦争   : 米  日 (3) v. 2     露
        東西冷戦   : 米 西独 日、2、3 v.     露 東独
 但し、米英独は論外として、その他のアクター達の中には、日本については言うまでもないわけですが、このスペクトラムが、人間主義/日本対スターリン主義/赤露、と正しく認識していた者達と、単に日本対赤露、としか認識していなかった者達がいた、と思われます。
 私は、現時点では、1(国民党左派)と2(中国共産党)が前者、3(蒋介石政権)、4(赤露派中国共産主義者達)と赤露が後者、であった、と考えています。
 とまれ、ここで銘記すべきことは、戦間期のこの日露冷戦・・2度にわたる小熱戦があったこと、この冷戦の末期に短期間の日露戦があったことに注意・・に勝利を収めたのは、人間主義/日本側であったこと、敗北を喫したのは、スターリン主義/赤露側であったこと、そして、致命傷を負ったアクターは(蒋介石政権と)英国であったこと、です。
 ●蒋介石・左右排撃戦略
 さて、蒋介石は、上掲のような、(英米独を除く関係勢力が概ね共通して認識していた風景であるところの、)スペクトラムを前提に、左右排撃戦略を企画し、実行に移した、というのが、私の二番目の視点です。
 この戦略は、このスペクトラムの埒内にあって、日本と赤露の間に存在する、蒋介石派以外のアクター達を次々に抹殺、除去することによって、スペクトラム埒内における独裁権力を確立しつつ、北伐、すなわち、(北京政府関係者を含むところの、スペクトラムの埒外の)諸軍閥を打倒し、究極的には日本軍も満州を含む支那から駆逐する、ことによって、支那全域の権力を掌握しよう、というものであったと見るのです。
 なお、「このスペクトラムの埒内にあって、日本と赤露の間に存在する、蒋介石派以外のアクター達」の大部分は、中国共産党員ないしスターリン主義者達であったので、それらの除去に乗り出したことは、すぐ後で詳述しますが、反赤露であった英国、ひいては米国を反中国国民党から親中国国民党へと変節させるための環境整備にも資したわけです。
 後でもう少し詳しく説明しますが、この蒋介石の左右排撃戦略は、事実上、赤露と示し合わせたものであった、とも私は見ているところです。
 既に示唆したように、赤露にとって、共産主義は、ロシアが、(モンゴルの軛のトラウマに苛まれ続けている)自国の安全保障を攻勢的に確保するための道具ないし手段、より端的にはイチジクの葉っぱ、に過ぎなかったこと、それに「ふさわしく」貶められた共産主義がスターリン主義であったこと、を想起してください。
 だとすれば、中国の共産主義者達など、赤露から見れば、およそ使い捨て可能な消耗品でしかなかった、と思えてきませんか?
3 対立軸の移動を振り返って
 (1)前史–戦間期支那における外交革命
 さて、英国は、19世紀以来、ロシアとグレートゲームを戦ってきたこともあり、赤露に対しても、引き続き、強い敵意と猜疑心を抱いていました。
 ロシア革命後のロシア内戦への列強の干渉を提唱したのが(形の上でフランスを誘ったけれど)英国であったこと、(兵力に余裕のある米日に多くの兵力を出兵させるためだと私は考えていますが、)公称ベースでは少ない兵力であっても、大英帝国(英国、カナダ、オーストラリア、インド)全体としては恐らくは、日本に次ぐ大兵力を投入したこと、(・・なんとなれば、「英国軍」の死者数は、最大兵力でもって最長期間出兵を続けた日本に次いでいるのですからね
https://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War (←英国の投入兵力は不明とある!)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 ・・)を思い出してください。
 で、当然のことながら、英国は、中国国民党の容共性、つまりは赤露の手先性、についても、強い警戒心を抱いていたのです。
 そのことは、(記されていることが事実であったとしてですが、)下掲からも明らかでしょう。↓
 「1924年8月から10月にかけて商団事件が勃発した。これは孫文の広東政府が「赤化」したとして危機感を覚えた<英国>などが、広東にある<英国>系銀行の代表者である陳廉伯に働きかけ、商人団に武装させて広東政府の転覆を図ったものである。陳炯明の残党と手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文は蒋介石に鎮圧を命じた。蒋介石は黄埔軍官学校の学生を中核とする国民党軍を直接率いて事件を鎮圧した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
 蒋介石は、私見では、そんな英国に日本を同調させないままにしておくべく懐柔するために、第一次南京事件が3月にあった1927年の9月という、北伐の最中という慌ただしい時期に日本を訪問したのです。
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[蒋介石・田中義一会談(1927年11月5日)]
 この会談に係る蒋介石側の公式記録や蒋介石の政治的立場を代弁した『蒋介石秘録』(産経新聞)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3%E7%A7%98%E9%8C%B2
中のこの会談の部分
http://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/06a5e5a9b49e1c6688fb40f9e26add65
は、蒋介石側にとって都合のよい形に歪曲されている、と見るべきだろう。
 「山浦貫一の「森恪」伝によれば、その会見では、大体、1、共産党と分離し、ソ連と絶ったのちの国民革命の成功、支那の統一を日本が認める。2、満州に対する日本の特殊地位と権益を支那は認める、という二点を中心にして、双方で円満な了解が成立したとある。」
http://taku223.1616bbs.com/bbs/taku223_tree_p_1245.html
というのが実態に近い、と私は考える。
 ちなみに、「蒋介石は・・・、新聞記者団との共同会見で、「貴我両国民は一致して東亜の平和に努力するため、まず中国国民革命の完成を図り、真正なる両国歓喜の基礎をたてなければならぬ。かくしてここに同文同種、共存共栄の持論は初めて持論は初めて実現し得るのである」とのべた」(上掲)ところだ。
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 (くどいようですが、仮に上に記されていることが事実である場合、)当時の英国は、むしろ、幣原外交(第一次: 1924年(大正13年)6月11日~1926年(大正15年)1月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
下にあった日本よりもスペクトラム上、更に「左」に位置していた、ということになるわけです。
 事実、幣原は、下掲のような、蒋介石一味に大甘の対支政策を行っていました。
 (陸軍出身の田中義一首相は蒋介石に何の幻想も抱いていなかったことでしょうが、幣原外相が、この時点では、対蒋スタンスが定まっていなかった米国に対する配慮から、かかる政策を田中に推奨し、外務省が担っていた外交大権を尊重した田中が、それを飲んだのであろう、と私は見ています。)↓
 「1925年(大正14年)に・・・中国が関税自主権の回復をめざして列国に対して国際会議を持ちかけたときは<、結果的には実らなかったが、>幣原は積極的に協力した。・・・
 1926年<に>・・・<日英>船舶が攻撃された万県事件の際には<英国>は武力で対抗したが日本外交は抗議にとどめている。・・・
 蒋介石の国民革命軍が北伐を開始すると、<日本は、英国>の派兵要請を<米国>とともに拒絶した。
 ・・・<第一次>南京事件 (1927年<3月24日>)の際、英米は蒋介石に対し最後通牒を突き付けることを決め、日本にも同調を求めたが、幣原は逆に英米の大使を説得し、これを断念させた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%A4%96%E4%BA%A4 
 ところが、その後、日本と英国のスタンスは、交差し、ついには真逆になっていくのです。
 日本については、そのきっかけになったのは下掲です。↓
 「<日本では、>南京事件や漢口事件などにより国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1927%E5%B9%B4) 
 英国の方は、下掲のような経過を辿ってスタンスが180度変化していくのです。↓
 「1925年5月30日 5・30事件(国民党、対英経済断交宣言。英領香港で経済封鎖。)
 1925年10月 北京特別関税会議(幣原外相・中国の関税自主権回復を支持)
 1926年7月 国民革命軍(蒋介石軍)の北伐開始。
 1926年12月26日 英国政府「クリスマス・メモランダム」を発表。(対中国政策の大転換)」
http://www.amazon.co.jp/gp/aw/cr/rR1XAZ9AXSJSHA3
 (参照)The British Proposals to the Powers Concerning China=December Memorandum=Cnristmas Memorandum
https://books.google.co.jp/books?id=R6rnCgAAQBAJ&pg=PT67&lpg=PT67&dq=Christmas%E3%80%80Memorandum%E3%80%80UK%EF%BC%9BChina&source=bl&ots=reOhPuaABD&sig=fcfe6fu1rW1giTUeu8j1jRcSFUE&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjV-cmF1KTNAhUGLaYKHfcCD4YQ6AEIHTAA#v=onepage&q=Christmas%E3%80%80Memorandum%E3%80%80UK%EF%BC%9BChina&f=false
https://books.google.co.jp/books?id=RzS8AAAAIAAJ&pg=PA9&lpg=PA9&dq=The+British+Proposals+to+the+Powers+Concerning+China;1926&source=bl&ots=ITXMXVXKYu&sig=Lk4xVl7h4B59m-j306cLNpFGzkw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiS4MuL1aTNAhVJ3WMKHeTyCXgQ6AEINzAH#v=onepage&q=The%20British%20Proposals%20to%20the%20Powers%20Concerning%20China%3B1926&f=false
 これを、戦間期支那における外交革命と言わずして何でしょうか。
 日本は正気を取り戻し、英国は狂気に身を委ねた、と言っていいでしょう。
 その結果、前にも指摘したように、英国は、大英帝国の過早な瓦解という致命傷を負うことになるわけです。
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[戦間期における、劣化した日英両国指導層]
<日本>
 日本の方は、私が前から指摘しているところの、非軍事官僚・政治家の軍事音痴化があったわけだが、これは致命傷を負うことにはならなかった。
<英国>
 英国の方は、私見では、指導層の劣化により、大英帝国の過早な瓦解という、致命傷を負うこととなった。
 その背景事情は以下の通りだ。
 (第一次世界大戦への国民の動員の見返りということだろうが、)1918年に、男性はほぼ全員、女性も30歳超のほぼ全員にまで選挙権が拡大され、有権者数は一挙に3倍に増え、1922年の総選挙で労働党が保守党に次ぐ第二党へと躍進し、第三党となった自由党の閣外協力を得て、(1923年の総選挙を経て)1924年1月労働党首のラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald。1866~1937年)が首相となった。
 そのマクドナルドは、教育を15歳までしか受けていない、スコットランド出身の人物だ。
 第一次マクドナルド内閣はその年の10月までしか続かなかったが、彼は、1929年から31年まで、第二次マクドナルド内閣を率いることになる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Labour_Party_(UK)
https://en.wikipedia.org/wiki/Ramsay_MacDonald
 このことが象徴しているように、この時期、英国の指導者が平均的に大幅に劣化した感は否めない。
 (現在は、英労働党もエスタブリッシュメント化しており、同党の議員達の学歴は保守党と比較してさほど遜色はない。(典拠省略)
 チャーチルの挙国一致内閣でナンバー2として入閣していて、やがて、チャーチルの後を襲って首相になる労働党首のアトリーは、「既に」オックスフォード大を出ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC )
 ちなみに、1939年から1945年までと1951年から1955年まで2回首相を務めたチャーチルも無学歴と言ってもよい人物だ。
 彼は、「1888年3月、パブリック・スクールのハーロー校の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた。・・・
 当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校<(Royal Military College, Sandhurst)>への進学を目指す「軍人コース」があり、劣等生は大抵ここに進んだ。・・・
 しかし・・・ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった。校長の薦めでチャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった。
 18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった。騎兵将校はポロ用の馬などの費用がかかり、そのため騎兵将校は人気がなく成績が悪い者が騎兵に配属されていた。・・・
 <但し、彼は、>1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
 とはいえ、その成績は、実技を含む、軍事専門教育に係るものでしかないことを忘れてはなるまい。
 実際、現在の同学校・・但し、戦後、もう一つの陸軍士官学校を吸収したので名称が、Royal Military Academy Sandhurstに変わっている。・・は44週間のコースでしかなく、文理の学問教育を行う余地などない。
 これは、Royal Military College, Sandhurst時代も同じだったはずだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Military_Academy_Sandhurst
 つまり、チャーチルは高卒でしかないのだ。
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 一体全体、どうして、英国は、こんな愚かな、対支外交戦略の転換をおこなったのでしょうか。
 いくら、この時期、指導層が劣化していたとしても、そこには、それなりの論理があったはずです。
(続く)
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太田述正コラム#8489(2016.7.16)
<2016.7.16東京オフ会次第>
→非公開