太田述正コラム#0388(2004.6.22)
<終焉に向かうアルカーイダ(その3)>
伝統的なjahiliyaとは、異教徒、すなわちイスラム教について蒙昧であること、を意味していましたが、クトゥブはこれを、イスラム教の原則に則っていないこと、すなわち野蛮であること、を指す言葉へと意味を拡大したのです。
これは、それまでのイスラム世界では、イスラム教徒たる支配者を打倒したり、殺害したりすることに対する禁忌があったところ、その支配者がイスラム教の原則に則っていない統治をしておれば、これを打倒したり殺害することは許される、というイスラム的革命理論が出来したことを意味します。
換言すれば、ジハードは異教徒だけでなく、かかるイスラム教徒に対しても行うことができるし、また行わなければならない、ということになったのです。
クトゥブのこのような考え方は、「堕落」した米国から帰国した彼が、故国エジプトもまた「堕落」していることを「発見」した結果形成されたと考えられます。
彼が幹部となったムスリム同胞団(クトゥブの米国滞在中の1948年には、第一次パレスティナ戦争でプレスティナ側に立って参戦した)が、英国の傀儡と目された王制を打倒した、ナギブ、ナセル、サダト等をリーダーとする自由将校団(Free Officers Movement)による1952??1953年のエジプト革命を支援したのはごく自然なことでした。
しかし、革命後のナセル政権は、クトゥブらの眼からすれば、アラブナショナリズムの旗を掲げつつもイスラム教の原則に背馳した世俗的な政権に他なりませんでした。必然的にクトゥブ、そしてムスリム同胞団はナセル政権と衝突します。そしてついにはクトゥブは投獄され、刑死するのです(注6)。
(注6)エジプトは、ナポレオン軍が撤退した1805年以降エジプトを支配したモハメッド・アリ(Mohamad Ali)の下で早くも近代化が始まり、かつ1882年から1956年(最後の駐留英軍の撤退)までの78年間にわたって英国のコントロールの下にあった(http://www.presidency.gov.eg/html/history.html。6月22日アクセス)。このため、第二次世界大戦が終わった時点では、エジプトは中東で最も都市化、産業化が進んだ国だった。
私は1956年2月(小学一年)から1959年10月(小学5年)までの3年8ヶ月間をエジプトのカイロで過ごした。首都カイロにせよ、第二の都市のアレキサンドリアにせよ、それぞれの中心部は、当時の東京などの日本の大都市に比べてはるかに先進的かつ欧米化した世界だった。日本の商社のカイロ支店長であった父と母と三人で暮らしたカイロの外国人居住区はとりわけそうであり、我々は高層マンションに住み、車に乗り、スーパーマーケットで買い物をし、スポーツクラブで泳ぎ、時々海外旅行に行くという、当時の日本では考えられない暮らしぶりをしていた。(こういった点では、その後日本も追いついた。)周りには、エジプト原住民は少なかったが、かつてエジプトを支配したギリシャ人、トルコ人、イギリス人らのほか、迫害を逃れてエジプトに定着したユダヤ人やアルメニア人ら、色んな宗教の種々の民族が仲良く豊かな生活を送っていた。(この点では、まだ日本は「追いついて」いない。)
クトゥブにとって、エジプトの大都会のスラムや農村の絶望的な貧しさとの対比で、上記のような世界はさぞかし「堕落」した悖徳の世界に映ったことだろう。
4 クトゥブとアルカーイダ
クトゥブの薫陶を受け、イスラム教原理主義者としてそのイスラム的革命理論を最初に実行に移したのはエジプトのJama’at al-Jihad (Society of Struggle)なる団体のメンバー五名であり、1981年に競技場の観客席で閲兵中のエジプト大統領のサダトを襲撃し、暗殺します。
この時の主犯の弟は現在、オサマ・ビンラディンと行動を共にしていますし、この団体のメンバーであったアイマン・ザワヒリ(Ayman al-Zawahiri)は、エジプトで三年間服役しますが、現在オサマ・ビンラディンの片腕として「活躍」しています。
そのオサマ・ビンラディン自身、クトゥブの弟ムハンマド(Muhammad Qutb)に師事しています。
すなわち、オサマ・ビンラディン率いるアルカーイダ・テロ集団は、サイード・クトゥブの申し子なのです。
(以上、上記atheismサイト及びhttp://www.npr.org/display_pages/features/feature_1253796.html(6月21日アクセス)も参照した。)
(続く)