太田述正コラム#8296(2016.3.25)
<ナチスの原点(I部)(その2)>(2016.7.26公開)
「ミュンヘン一揆は、知られているように、ビュルガーブロイケラー(Burgerbraukeller)<(注4)>で始まった。
(注4)「ミュンヘンにあった大きなビアホールの名称。1885年にビール醸造会社のビュルガーリッヒ・ブロイハウス(Burgerliches Brauhaus)が開店させた大規模ビアホールのひとつだったが、1920年にレーベンブロイが同社を合併したあとはレーベンブロイが経営していた。・・・
ホール内は1,830人が収容できる規模でレストランとしてだけでなく集会場としても機能し、ヴァイマル共和政期にはさまざまな勢力の政治集会の場となった。特に1920年から1923年にかけて、・・・ナチス・・・がこのビアホールを党の演説会や集会の会場に利用していたことで知られる。また1923年11月8日にバイエルン州総督・・・の演説会が行われていた際にアドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件・ミュンヘン一揆・・・を起こした場所としても知られる。
1925年2月27日、解散を命じられていたナチスは再結党集会をビュルガーブロイケラーで開き、ヒトラーは党の敵に対する容赦ない攻撃を訴えた。1933年にナチスが政権を掌握すると、ヒトラーは毎年11月8日にビュルガーブロイケラーを訪れ、当時の一揆の参加者らを前にミュンヘン一揆記念の演説をするのが恒例となった。
1939年、労働者であったゲオルク・エルザーは、1ヶ月以上をかけてホール内のコンクリート柱に穴を開け、ミュンヘン一揆記念日に演説中のヒトラーを暗殺するために時限爆弾を仕掛けた。1939年11月8日の午後9時20分、演説会中のビュルガーブロイケラーでこの爆弾が爆発し、死者7人と負傷者63人を出す被害が出た。しかしヒトラー本人はベルリンでの第二次世界大戦情勢に関する会議に出席するため予定より早く演説を切り上げ、会場を後にしたところであり、無傷で済んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC
それは、集会場兼ビアホールであり、よく、政治の諸集会や諸演説会場として用いられていた。
問題の夜、バイエルン州政府のカール(Kahr)総督(Commissioner)<(注5)>が、3000人の群衆に対して演説する予定だった。
(注5)グスタフ・フォン・カール(Gustav von Kahr。1862~1934年)。「ミュンヘンの大学で法学を学<び、1920年、バイエルン州首相(1920~21年)。>・・・<その2年後の1923年>9月26日に<時の>バイエルン州首相・・・はバイエルン州に戒厳令を布き、君主主義者やカトリック教会からも信任が厚いカールを「州総督 (Generalstaatskommissar)」に任じた。州総督であるカールにはバイエルンの立法権と行政権が付与され、バイエルンにおいて独裁権を握ることとなった。・・・
<、ミュンヘン一揆初日の>11月8日夜<、カールは、件のビアホールでヒットラー一味に拘束されるが、ルーデンドルフの許可を得て脱出すると>中央政府と連絡をとってただちに一揆を鎮圧する準備を開始した。・・・
その後カールは1924年から1927年までバイエルン州行政裁判所の裁判長を務めた。
ナチ党政権誕生後の1934年6月30日の「長いナイフの夜」の際、カールはナチス親衛隊によりミュンヘンから誘拐された。その後、ダッハウ強制収容所近くで斧で斬殺され、遺体は沼に投げ捨てられた。ミュンヘン一揆での「裏切り」のためであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB
ところが、ヒットラーは、この集会を襲撃し、天井に向かって銃を撃ち、機関銃で武装していた彼の部下達とともに、出入り口を全て押さえ、バイエルン政府は打倒されたと宣言した。
最初はうまく行ったが、ヒットラーによる一揆は、48時間も経たないうちに失敗に終わった。
州政府の庁舎群に対する、運命の定まっていた行進は、州政府に忠実で会った警察との銃撃戦で終わりを迎えた。
4人の警察官、ヒットラーの手下13人、そして通りすがりが1人、死に、ヒットラーは逃亡した。
しかし、2日経たないうちに彼は見つかり、逮捕され、ランツベルク(Landsberg)<(注6)>刑務所に収監された。・・・」(B)
(注6)ランツベルク・アム・レヒ(Landsberg am Lech)。「ミュンヘンの西約55km、アウクスブルク<(Augsburg)(コラム#1805、4314、5457、7037、7870)>の南約38kmのロマンティック街道沿いに位置し、・・・ドイツで最も日照時間の長い都市である。・・・
ヒ<ッ>トラーは<この都市の刑務所で>禁錮刑服役中の1924年に『我が闘争』を執筆した・・・。<この都市>は1937年から1945年まで、ミュンヘン、ニュルンベルク<(Nurnberg)(コラム#763、976、1004Q&A、4123、4499、4992、5150、5152、5154、5162、5408、5452、5454、6112、6206、7143、7434、7831、7860、7914、7922、8280)>に次ぐ国家社会主義第3の中心都市であった。「ランツベルク — ユーゲントの街」のスローガンの下、ヒ<ッ>トラーユーゲントの中心地として知られていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%92
「ナチス党政権下時代、ナチス党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
(続く)
ナチスの原点(I部)(その2)
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