太田述正コラム#0390(2004.6.24)
<終焉に向かうアルカーイダ(その5)>

 もう少し具体的にご説明しましょう。
 アルカーイダの「先輩」のJama’at al-Jihadは、イスラム教に背いてエジプトの世俗的発展を追求し、しかもイスラム世界の仇敵イスラエルと和解までしたサダトの暗殺にこそ成功しましたが、ムバラク政権によって徹底的に弾圧され、その組織は壊滅します。その灰燼の中から再び生まれた同種のグループであるGamaa al-Islamiyyaは、エジプトの権力中枢をテロの対象とすることを諦め、その矛先をエジプト内の外国人に向けます。
 その「成果」が、1997年のルクソールでの外国人観光客58名とエジプト人4名の大殺戮です。しかし、このテロがエジプトの庶民を巻き添えにした上、観光客の激減を招いたことからエジプトの民衆の憤激を呼び、この事件以降、エジプトにおけるイスラム原理主義テロリズムは根絶され現在に至っている、と言ってもいいでしょう。
 (以上、http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/middle_east/343207.stm(6月23日アクセス)による。)

 さて、肝腎のアルカーイダについてです。
 アルカーイダの特徴は、ソ連がアフガニスタンから撤退した後を受けて、イスラムの最大の敵、米国を見据え、その勢力のイスラム世界からの一掃を第一義的に追求してきた点にあります。
 まず、煩雑さを厭わず、これまでのアルカーイダの活動を振り返ってみましょう。

 アルカーイダはソ連が1992年までのアフガニスタンからの撤退を発表した1989年、オサマ・ビンラーディンによってアフガニスタン及びペシャワールを本拠地として設立されます。
 1992年にはビンラーディンは、イランと(イランの影響下にある)レバノンのヒズボラに対し、全世界での対米戦争をともに戦うように呼びかけ始めます(1995年まで)。同じ年の12月、イエーメンのアデンで、ソマリアに赴く米兵をねらい、結果的に二人のオーストリア人観光客が死亡した爆破事件を起こします。アルカーイダによる最初のテロ事件です。
 1993年には2月に、死者6名負傷者数百を出したニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件を起こします。同じ年の10月、ソマリアのモガディシオで米海兵隊員が待ち伏せ攻撃を受け16名が死亡する事件(Blackhawk Down)が起こります。この攻撃を行ったアイディット将軍の部隊を訓練し、攻撃を企画したのはアルカーイダでした。
 1994年には、パリ行きのエアーフランス機を乗っ取ります。計画では、パリ上空で爆破するか、エッフェル塔に突入させることになっていましたが、飛び立つ前にフランス特殊部隊が強襲し、失敗します。同じ年の12月、ボジンカ(Bojinnka)計画の予行として、フィリピン航空機にしかけた小爆弾で、日本人1名を死亡させます。
 1995年1月、米国行きの旅客機12機を飛行中に一斉爆破するというボジンカ計画がマニラで露見し、未然に防止されます。同じ年の8月、ビンラーディンはサウディのファハド国王宛の公開書簡で、サウディ国内の米軍と戦うように呼びかけます。
 1996年5月、スーダン政府に国際的圧力がかけられたことから、ビンラーディンが1991年以来滞在していたスーダンを離れ、アフガニスタンに戻ります。同じ年の6月、サウディのダーランでコバール・タワー・ビル(KHOBAR TOWERS)が爆破され、19名の米兵が死亡し、約500名の負傷者が出ます。これはイランがヒズボラを使って引きおこしたとの説が通説となりつつありますが、ビンラーディンも関与したとの説も依然有力です。
 1998年2月、ビンラーディンらは、全世界のイスラム教徒に、あらゆる場所で米国人を殺すように呼びかけました。
 1998年8月、ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームの米国大使館を爆破し、それぞれ213名の死者と約4,500名の負傷者、11名の死者と85名の負傷者を出します。これに対する報復として、クリントン米大統領は、アフガニスタンのアルカーイダの基地と考えられた場所、及びアルカーイダのために化学兵器を作っている考えられたスーダンの化学工場、をトマホーク・ミサイルで攻撃します。(これらの攻撃は、十分な事前調査なくして決行されたと後に批判されます。)
 (以上、http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/knew/etc/cron.html(6月23日にアクセス)による。)
 1999年には、ロサンゼルス国際空港をねらった爆破テロが未然防止されます。
 2000年1月には、イエーメンのアデンで米海軍の艦艇を狙った爆破テロが失敗しますが、10月には、別の米海軍艦艇コール(Cole)のボートに積んだ爆弾による自爆テロに成功し、米兵17名を死亡させます。
 いよいよあの2001年です。6月にイエーメンのサヌアの米国大使館に対する攻撃が未然防止されます。そして9月には、9.11同時多発テロを敢行します。四機の旅客機をハイジャックし、ニューヨークの貿易センタービル二棟に二機が突っ込み、ワシントンの国防省に一機が突っ込み、そして最後の一機はワシントンに向かう途中で墜落し、合わせて3,000名以上の死者を出すのです。この中には日本人の死者24名が含まれています(http://www.worldtimes.co.jp/special2/bali/ba021014.html。6月24日アクセス)。
 (以上、特に断っていない限り、http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/knew/etc/cron2.html(6月23日アクセス)による。)
 
(続く)