太田述正コラム#8304(2016.3.29)
<ナチスの原点(I部)(その3)>(2016.7.30公開)
 「・・・ヒットラーは、彼の蜂起を1925年2月27日に設定した。
 彼が、ビュルガーブロイケラーを選んだのは、予想できたし効果的だった。
 警察は、グスタフ・カールの1923年11月の演説・・それは、ヒットラーによる一時的誘拐によって終わった・・の夜に行ったように、このビアホール周辺の諸街路を閉鎖しなければならなかった。
 1923年の時と全く同じく、予期と諸感情は高まっていた。
 しかし、一揆の夜の時とは違って、その時の夜は、天井への諸発砲も、人質を取ることも、政府が打倒されたことの諸宣言もなかった。
 その代わり、脚光を浴びさせる形での<ヒットラーの>復帰が演出されることになる。
 演説する前に、ヒットラーは、人民オブザーバー(フェルキッシャー・ベオバハター=Volkischer Beobachter)紙<(注7)>の社説の中で、競争関係にある諸派の間での即時平和と自分への無条件の服従が自分の最初の要求であることを明言した。
 (注7)ナチ党の機関紙。1920年に週刊で始まり、1923年2月8日から日刊化した。1921年に、ヒットラーは同紙の全株式を所有した。ミュンヘン一揆後、発禁処分を受けていたが、党が再結党された1925年2月26日から再び発行を始めた。1945年3月で配布が終わる。
https://en.wikipedia.org/wiki/V%C3%B6lkischer_Beobachter
 ヒットラーのこの運動及びこの瞬間に対する統御(mastery)の感覚は極めて完全なものだったので、彼は誰から諸条件を課されることも拒否した。
 全員が、この再結党された党に再入党しなければならなかった。
 すなわち、前に党員であったことは持ち越されなかったわけだ。
 それは、完全に新しい始まりでなければならなかった。
 指導者の地位の共有、合同(joint)意思決定、或いは、特別な人々への特別な諸役割、についての議論はなかった。
 ヒットラーが絶対的な権威を持つことになったのだ。
 しかし、この演説の宵、ヒットラーは、自分が成就することができないところの、諸期待を高まらせることでもって、自分自身で作った罠にかかったかのように見えた。
 ルーデンドルフ大将、グレゴール・シュトラッサー(Gregor Strasser)<(注8)(コラム#4936)>、そして、エルンスト・レーム(Ernst Rohm)<(注9)(コラム#4288、4420、4990)>はヒットラーの大出し物に参加していなかった。
 (注8)1892~1934年。「ナチ党がミュンヘン一揆の失敗により禁止された時期にナチ党の偽装政党「国家社会主義自由運動」で頭角を現し、ナチ党再結党後に党首アドルフ・ヒトラーより北部ドイツのナチ党の再建を任された。その後、党中央で宣伝全国指導者や組織全国指導者を務めた。実弟オットー・シュトラッサーと並び、ナチス左派を代表する人物であったが、保守派のヒトラーから疎まれてやがて実権を喪失した。1932年12月には独断で首相クルト・フォン・シュライヒャーと接触したため、党役職の辞職に追い込まれた。さらにナチ党の政権獲得後に長いナイフの夜事件において粛清された。・・・第一次世界大戦<を挟んで、>・・・ミュンヘン大学<と>・・・戦後、エアランゲン・ニュルンベルク大学<で>薬学<を>勉学<して>・・・薬剤師<になる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC
 長いナイフの夜事件( Nacht der langen Messer)。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%95%E3%81%AE%E5%A4%9C
 (注9)1887~1934年。「1931年から突撃隊幕僚長になったが、のちに路線の対立が原因でヒトラーによって<長いナイフの夜事件において>粛清された。」ミュンヘン士官学校卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A0
 
 アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)<(注10)(コラム#338、2792、5408)>も、この催しを「喜劇」だと退け、このような場面でヒットラーが要求するであろうところの、「兄弟接吻」を予期し、参加回避をした。
 (注10)1893~1946年。エストニアのリガ工科大学に学び、建築士に。「ニュルンベルク・・・裁判ではローゼンベルクが「・・・党のイデオローグ」とみなされ、さらに外交政策責任者の一人であったことが重視され・・・死刑<にされた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
 ヒットラーはドレクスラー(Drexler)<(注11)>に、<ナチスの>前身のドイツ労働者党(German Workers’ Party)の創建者として、司会を頼んだ。
 (注11)アントン・ドレクスラー(Anton Drexler。1884~1942年)。学歴なし。「1919年1月5日に<もう一人>と共にドイツ労働者党(DAP)を設立。この党は1920年2月24日に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と改名された。・・・ドレクスラーは新党の副代表、ついで代表に就任したが、・・・<後に代表に選出されたヒットラーによって>名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った。・・・1925・・・年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になってからであった・・・が、以後も政治的影響力は全くなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC
 しかし、ドレクスラーは、ヒットラーが、まず、憎まれていたヘルマン・エッサー(Hermann Esser)<(注12)>を追放するなら、という条件を付け、ヒットラーはそれを拒否した。
 (注12)1900~81年。学歴なし。「1920年から1926年まで国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の初代宣伝部長と初代宣伝全国指導者を務めた。・・・
 <ナチスドイツ時代の最終ポストは、>1939年からゲッベルスの国民啓蒙・宣伝省内の観光旅行局次官」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC
 最終的に、ヒットラーは、この大きな催しの開会を宣言する役割をマックス・アマン(Max Amann)<(注13)>・・よい実業家ではあるが人を熱狂させる弁舌家ではない・・に負わせた。・・・」(D)
 (注13)1891~1957年。無学歴。「『我が闘争』の出版に関与した。最終階級は親衛隊大将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%B3
⇒第一次世界大戦後のドイツにおいて、氏素性の定かでないヤクザ者達の集団が、乱れた世の中を、暴力と「組長」の香具師的弁舌によって、次第にカタギの世界の中枢へと上り詰めて行くわけですが、どうしてそんな無茶苦茶なことを、カタギの人々、とりわけカタギのエリート層が許したのか、と今更ながら首を傾げたくなります。(太田)
(続く)