太田述正コラム#8318(2016.4.5)
<ナチスの原点(II部)(その5)>(2016.8.6公開)
 (6)反ユダヤ主義
「・・・翌<1930>年初、個人的親書の中で、ヒットラーは、再び、自分自身を預言者であると宣言した。
 「神託に近い確実性をもって」彼が2年半から3年以内に権力を握るであろうとの予言を唱えつつ・・。
 今回は、彼は正しかった。・・・
 1933年4月、ヒットラーは、駐独イタリア大使のヴィットリオ・セルッティ(Vittorio Cerruti)<(注10)>に、最近の(失敗した)ユダヤ人諸ビジネスのボイコットを超えるものを欲している、と囁いた。
 (注10)1881~1961年。ローマ大法学部卒。戦間期に、ロシア、ブラジル、ドイツ、フランス大使を歴任。
https://it.wikipedia.org/wiki/Vittorio_Cerruti
 戦慄すべきことだが、彼は、「500ないし600年にわたってヒットラーという名前はきっぱりと、ユダヤ人という全球的ペスト禍を根絶した男として普遍的に賛美されることだろう」、と予言したのだ。
 実際、彼の反ユダヤ主義は、その年、更に猛毒性のものへと高まっていた。・・・」(C)
 「・・・反ユダヤ主義でさえ、恒常的主題ではあったものの、満干があった。
 ヒットラーは彼の観衆達のことが分かっていた。
 確信的にして熱情的な反ユダヤ主義者ではあったが、その全員が何か異なった諸事柄について聞きたいと欲していたところの、ドイツの産業家達、労働階級のベルリン市民達、或いは、ヒンデンブルク(Hindenburg)<(注11)(コラム#71、2876、3585、4988、5435、6506、7267)大統領のような王政復古主義者達に話をする場合は、平気でこの件をおくびにも出さなかった。
 (注11)パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg。1847~1934年)。「軍人、政治家。ドイツ国(ヴァイマル共和政)第2代大統領(在任:1925年 – 1934年)。第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。大戦後期には参謀本部総長を務めた。・・・プロイセン高級士官学校<卒>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
 産業家達に対しては、彼は彼らの共産主義への諸恐怖に訴えた。
 労働者達に対しては、彼は、自分のウィーンでの労働者としての時代について懐旧した。
 ヒンデンブルクに対しては、ホーエンツォレルン家を王座に復帰させる話を物思いに沈む風情で語った。
 結局のところ、ナチズムを結集させていたものは。諸政策ではなく、著者が、大衆達と高度に状況適応可能な総統との間の、殆ど「エロティックに充電された関係」と呼ぶところの、指導者カルトだったのだ。
 著者は、ヒットラーについて通常抱かれているいくつかの諸神話を打ち砕く。
 手始めは、彼がウィーン時代から全面的な反ユダヤ主義者として立ち現れた、という憶説だ。
 それは、そそられる観念ではある。
 というのも、当時のウィーンは、同市の、恐るべき、そして、ポピュリスト市長たる、カール・ルエーガーから始まったところの、反ユダヤ主義ではちきれんばかりだったからだ。
 一世代以内にかくも甚だしく変わった都市は殆どない。
 1848年という遅い時期におけるハプスブルク帝国内の農奴制の廃止<(注12)>は、19世紀の最後の数十年において、その多くがスラヴ人達ないしはユダヤ人達であったところの、農民達を、貧しい諸田舎から帝都へと、大波のように送り出した。
 (注12)「オーストリアでは皇帝ヨーゼフ2世が、1781年に農奴解放令を出して農奴制廃止を図ったが、貴族など抵抗勢力の反発を招き改革が頓挫したため、事実上農奴制は温存された。最終的には1848年革命によって農奴制は廃された。・・・
 <ちなみに、プロイセンでは、>1807年、ナポレオン・ボナパルトに敗北した屈辱から始まった一連のプロイセン改革で<農奴制的なものは廃止されていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E5%88%B6#.E3.82.AA.E3.83.BC.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.AA.E3.82.A2
 その時までは、ユダヤ人の<ウィーンでの>存在は無視しうる程度だった。 
 それが、突然、彼らは人口の10%を占めるに至り、実業、医学、法務。諸芸術と出版においてその影響力をどんどん高めた。
 ユダヤ人とスラヴ人の殺到は、ウィーンがそのドイツ的性格を失おうとしている、というパニックを生んだ。
 それを、ルエーガー市長は信じると同時に煽り立てた。
 当時、貧困にあえいでいて惨めな思いをしていた若き画家であったヒットラーが、この反ユダヤ主義的大騒ぎに影響されたと想像するのは都合がよいが、著者は、その証拠は殆どない、と述べる。
 それどころか、ヒットラーは、彼が滞在していた諸ホステルで何人ものユダヤ人のダチ達を持っていたし、彼の家族の年とったユダヤ人の医師との関係は恭しいものだった。
 神経症的なユダヤ人に関する強迫観念は、その何年も後に、ヒットラーが第一次世界後にミュンヘンに住んでいた時に、バイエルン州の共産主義者達による短期間の乗っ取り<(注13)>の間からその後にかけて生じた、と著者は述べる。
 (注13)バイエルン・レーテ共和国(1919年4月6日~5月3日)。「ソ連共産党から派遣されていたプロの赤色革命家たちの策謀でもあった。・・・背景<:>・・・バイエルンはドイツ帝国でも最も保守的な人たちが多い土地柄だったが、プロイセンのホーエンツォレルン王家より歴史の古いヴィッテルスバッハ王家を持っていたことから、バイエルン人にはプロイセン人に対するライバル意識が強く、プロイセンを中心としたドイツ帝国が形成されたのちも反プロイセン的な感情を持つ住民が多かった。第一次世界大戦についても「プロイセン王が勝手に起こした戦争にバイエルン人が巻き込まれた」という総括をするような人が多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%86%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
 ヒットラーの人格の諸微妙さ(nuances)が、1933年に、どうしてドイツのユダヤ人達が荷物をまとめて大量に出国しなかったの説明に資する。
 彼は、共産主義と世界のユダヤ人達が、欧州文明、及び、とりわけドイツ、に対する共同陰謀に従事している、との確信を抱き、その頃には、彼は、第一級のユダヤ人憎悪者になっていた。
 しかし、そうであってさえ、ヒットラーは、自分の諸カードを注意深く、かつ、慎重に切った、と著者は記している。
 ナチスが権力を掌握してから2年間は、ヒットラーは、エルンスト・レームの力を削ぎ、ドイツの中産階級の諸恐怖を軽減するため、レームの褐色シャツ隊(Brownshirts)、すなわち、突撃隊(SA)<(注14)(コラム#571、742、2033、2301、4288、4420、4874、4990、5032、5431、8280、8304)>内にいる、より甲高い反ユダヤ主義者達を実際に弾圧している。・・・」(B)
 (注14)「突撃隊はナチス党集会の会場警備隊が改組されて創設された・・・1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、一揆の失敗で一時期禁止された。1925年にナチスと共に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備、パレード行進、ドイツ社会民主党(SPD)の国旗団やドイツ共産党(KPD)の赤色戦線戦士同盟との街頭闘争などを行った。ナチスの政権掌握直後の1933年には補助警察となり、政敵の弾圧にあたった。しかし突撃隊は下層民も多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員が多く、国防軍などの保守勢力との連携を深める<ヒットラー>にとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレームをはじめとする突撃隊幹部が親衛隊(SS)によって粛清された(長いナイフの夜)。粛清後は勢力を失ってSSの配下となり、以降は国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E6%92%83%E9%9A%8A
(続く)