太田述正コラム#8328(2016.4.10)
<一財務官僚の先の大戦観(その1)>(2016.8.11公開)
1 始めに
読者のMHさん提供の松元崇(たかし)『持たざる国への道–あの戦争と大日本帝国の破綻』(2013年)のさわりをご紹介し、適宜、私のコメントを付します。
なお、松元(1952年~)は、東大で漕艇部で活躍し、留年して司法試験にも合格後、76年東大法卒、大蔵省入省、スタンフォード大MBA、その後、主計局次長、内閣府事務次官、2014年退官、現在弁護士・第一生命経済研究所特別顧問、という人物です。(上掲の奥付、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%85%83%E5%B4%87 )
東大教授の(何度か太田コラムにも登場した)加藤陽子の長々しい解説がアマチュア史家の本に付けられている・・この本の脚注にも巻末の参考文献にも日本語文献(邦語訳を含む)以外登場しない!・・ことにまず違和感を覚えましたが、予感した通り、吉田ドクトリン史観を一歩も出るものではなさそうであり、読書意欲が萎えかけたものの、私と世代が殆ど同じの、しかも三重の意味で私の後輩である(財務)官僚が、吉田ドクトリン史観をどのような観点や言葉遣いを用いて叙述しているのかを確認するのもあながち無駄ではないし、著者の「専門」の財政・金融面からの戦間・戦中期日本の歴史記述にも目新しさがあるかもしれない、と思い直し、本文を読むことにしました。
2 一財務官僚の先の大戦観
「『アンパンマン』の作者やなせたかしは、昭和18年の春、徴兵され<たのだが、彼>によれば、・・・「・・・本格的な戦闘のないまま、上海の近くの農村で終戦を迎えました。ぼくらは軍閥の悪政に苦しむ中国の民衆を助けなくちゃいけないと思って行ったのに、戦争が終わると『悪鬼のような日本軍』と石を投げられた。うちの部隊は学校を作って子どもに勉強を教えたり、食べ物をあげたりして、何も悪いことはしなかったのにね」といったものであった」(12)
⇒もちろん例外はあったけれど、日本の将校も兵士も、その大部分は人間主義者として人間主義的大義を信じて出征し、行動した、ということなのであり、そのことは、中国国民党といえども、日本で教育を受けた蒋介石は少なくとも分かっていたはずですし、中国共産党に至っては、当局のコンセンサス的日本軍観であったことはご承知の通りです。(コラム#省略)(太田)
「戦争が終わった日の8月15日は、わが国では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされている。しかしながら、その日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」ととらえている国は、わが国以外にはない。どうして、そうなのだろうかというのが筆者が本書に込めた一つの疑問である。」(12)
⇒ドイツの降伏が終戦であった諸国以外では、日本の同盟国として8月15日に終戦を迎えた国、すなわち敗戦国が事実上皆無であった以上、唯一の敗戦国たる日本が、この日について戦勝諸国と異なる受け止め方をしたのは当然であり、一体、松元が何故「疑問」を抱いたのかが私には、全く理解できません。(太田)
「宇垣一・・・が戦後に二・二六事件(1936年)当時を振り返って「その当時の日本の勢というものは産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。(中略)英国を始め合衆国ですら悲鳴をあげている。(中略)この調子をもう5年か8年続けて行ったならば日本は名実共に世界第一等国になれる。(中略)だから今下手に戦などを始めてはいかぬ」状況だったと回想している・・・。
⇒この経済高度成長は、「1931年4月、・・・政府は・・・工業組合法、重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C
という、商工省主導の、私見では、江戸時代のプロト日本型経済体制のアップデート版の導入と、後述する、同年12月からの、大蔵省主導の高橋財政の推進、両者を総じて言えば、日本が継受していたアングロサクソン型経済体制の大幅修正、の賜物であったところ、前者は総動員体制と親和性があり(上掲)、後者は軍需による有効需要の喚起を内包している(後述)ことから、戦争の開始・遂行それ自体が経済高度成長の阻害要因になることはありえないのであって、宇垣の主張はおかしい、と言わざるをえません。(太田)
そのように好調だった日本経済は、2.26事件の翌年に起こった盧溝橋事件(1937年)以降、日中紛争が泥沼化するに従って行き詰っていった。生活の窮乏化は英米のブロック経済が「持たざる国」である我が国を追い込んだためと受け止められた。その点は今日でもそう信じている向きが多いが、2.26事件当時に「英国を始め合衆国ですら悲鳴をあげている」とされたほどに繁栄していた我が国が突然「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や経済的な負け戦となった華北経営が我が国経済を国際的な孤立の中で、じり貧に追い込んでいき、その結果「持たざる国」になってしまったのである。
⇒「持たざる国」的な観念が日本で抱かれるようになったのは、それより前からですし、そもそも、この観念は、独伊と共有していた普遍性ある観念であって(注1)、松元の歴史アマチュアぶりが早くも露呈した、といったところです。(太田)
(注1)「犬養内閣の高橋是清蔵相<が>、31年12月、金輸出を再禁止<するとともに、>・・・積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った<おかげで、>・・・<金輸出を再禁止に伴う>円安に<も>助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増にともない景気も急速に回復し、1933年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した<が、>米英などからは<、これは>「ソーシャル・ダンピング」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的なブロック経済を構築した(英:スターリング・ポンド・ブロック、米:ドル・ブロック、仏:フラン・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、日満支円ブロック構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツ・イタリアも自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C 前掲
軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」といわなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。ところが、それを英米の敵対政策のせいだと思い込んだ国民は、英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をより一層支持するようになっていった。そのような状況下で、本来戦う必要のなかった米国との大戦争に突入し国土を焼野原とされて敗戦を迎えたのがあの戦争であった。それは「悲劇」としか言いようのないものであった。」(13~14)
⇒松元の具体的説明を待つ必要がありますが、ツッコミどころ満載、という印象を受けます。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その1)
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