太田述正コラム#8332(2016.4.12)
<一財務官僚の先の大戦観(その3)>(2016.8.13公開)
「<米国の>ラルフ・バード海軍次官は・・・日本に対する原爆使用に対して・・・猛反対し、どうしても使用するなら事前予告すべきだと主張した。・・・<そして、彼は、>無警告投下が決まったのを受けて辞表を提出した・・・。また、米軍の爆撃は、中立国の大使館や外務省、皇居、大学などは目標としなかった。我が国を代表する哲学者の一人であった今道友信は「アメリカは爆撃しても絶対に文化施設は焼かなかったのです。たしかにそのころ東京にあった大学・・・で焼けたところはひとつもない」と述べている・・・。」(21)
⇒皇居を爆撃対象としなかったことを除き、私は聞いたことがなかった・・正確には、バードの話は忘れていた・・ので、事実だとすれば、この本での初めての収穫です。(松元は、このくだりに一応典拠を付しています。)
そこで、簡単に検証してみました。
まず、ラルフ・バード(Ralph Austin Bard。1884~1975年)は、プリンストン大卒の投資銀行家であり、上出の彼による「主張」は、トルーマン大統領によって設置されたところの、原爆の使用に関する8名の委員からなる暫定委員会(Interim Committee)の一委員として、一旦は無警告投下に賛成しつつも、考え直し、その後の1945年6月27日に同委員会委員長のスティムソン陸軍長官宛ての覚書の形でなされたものです。
(彼が、原爆投下だけでなく、ソ連の対日参戦、及び、昭和天皇の無答責、についても日本政府に伝えるべきだ、とこの覚書の中で記していたことは注目されます。)
但し、第一に、バードは、1941年2月24日から海軍次官(Assistant Secretary of the Navy)、1944年6月24日から6月30日まで海軍副長官(Under Secretary of the Navy)であって、1945年に暫定委員会が設置された時点では副長官ですし、第二に、バードは、この委員会がトルーマンに対して、彼の「主張」に反する答申を提出した頃に辞表を提出し、その後1か月して辞任している事実はあるけれど、これが「主張」が受け入れられなかったことを理由とするものであったかどうかは定かではないとされています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Austin_Bard
結局、松元は、都市伝説に近い話を紹介した、ということになりそうです。
次に、(大学が文化施設と言えるのかどうかはともかく、)文化施設は爆撃の対象にならなかったという話の方ですが、これは、下掲を一読されればお分かりのように、都市伝説の紹介では済まないのであって、捏造史実の日本人への際刷り込みを図った、と松元が非難されてもやむをえないでしょう。↓
「軍需施設や軍事施設を有する鎌倉地域は本格的空襲を受けることがなかったが、その理由について<米国>の美術史家・ラングドン・ウォーナーが政府を説得したことにより、京都市や奈良市などと共に空襲を免れたという説が真しやかに伝わっている。・・・
一方、同志社大学教授のオーティス・ケーリが1975年に「爆撃禁止命令は陸軍長官・ヘンリー・スティムソンの指示によるもの」とする調査結果を発表、専門家の吉田守男が2002年に出版した自著の中で「日本の文化施設・文化財を記した『ウォーナー・リスト』は、必ずしも戦災から守るために作成されたのではない」と様々な要点を示して否定するなど、矢代の公表した説には疑問が呈されている。なお、ウォーナーと交流のあった茨城大学五浦美術文化研究所元所長の稲村退三によれば彼自身は生前「文化財リストを作成したのは自分達だが、爆撃を中止させるほどの権限はなかった」と発言するなど関与を否定していた、としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E7%A9%BA%E8%A5%B2
「吉田の研究によれば、ウォーナーの文化財保護の話はGHQ民間情報教育局の情報工作による宣伝で、事実と異なるとする。吉田によれば、ウォーナーリストは、単なる文化財保護の目的ではなく、占領地域での文化財を保護し、(ナチスなどが)略奪した文化財を返還させ、弁償させるために作成したリストの日本版であった。リストに記載された文化財で、名古屋城、岡山城など空襲によって焼失したものは多数存在する。また、実際には、京都でも東山区馬町(1945年1月16日)、右京区太秦(4月16日)、右京区春日(3月19日)、上京区西陣(6月26日)、そして京都御所(5月11日)などと計20回以上の空襲に遭っており、原爆の投下候補地にもなっていた。京都が結果的に大規模な空襲を免れたのは、原爆の投下目標として温存されたためである。奈良も、大規模な空襲こそなかったが、小規模な空襲や機銃掃射は多々あった。
2007年には毎日新聞が、オーティス・ケーリや五百旗頭真の調査により、京都を原爆投下候補地から外したのは実は陸軍長官ヘンリー・スティムソンであり、戦前、京都を訪れ、日本文化を愛していたスティムソンの配慮毎日新聞2007年1月14日、五百旗頭 「個人が歴史を変えた」「回避された京都への原爆」に依るものだったという説を報道。ケーリ・五百旗頭調査を2010年に紹介した比較文化史家で東京大学名誉教授の平川祐弘は、ウォーナーの他にも日本の文化財保護の立役者と言われている人物が複数いるがどれも根拠薄弱であると述べ、「外国人に感謝するのもいいが、するなら根拠のある感謝をしてもらいたい。」「ウォーナー伝説は日本では美談扱いだが、米国では日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として研究対象にされた。」と痛烈に批判している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC
(ちなみに、今道友信(1922~2012年)・・元東大文学部教授・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E9%81%93%E5%8F%8B%E4%BF%A1
という人物も、私は、今の今まで知りませんでしたが、検証抜きにモノを言う、愚形而上学者の典型、と見ました。)
こんな調子では、松元のこの本の記述はことごとく疑ってかかった方がよさそうです。
松元は、自分が中高時代に学校で教わった日本史や世界史の占領軍/吉田ドクトリン史観を鵜呑みにしたまま、その後も、この史観に沿った本(、しかも、日本語の本、)だけを読み続け、また、せっかく米国に留学させてもらいながら、米国の異常さや米国の闇にも、それらが占領軍/吉田ドクトリン史観と相いれないことから、目をそらしたまま漫然と2年間を空費して帰国した、と私は見ます。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その3)
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