太田述正コラム#8336(2016.4.14)
<一財務官僚の先の大戦観(その5)>(2016.8.15公開)
「日英同盟以来の良好な伝統があった日英関係も、第一次上海事変で大きく損なわれた。
松本重治<(注4)>によると、英国は第一次上海事変までは日中間の紛争回避の方針を持っていた。
(注4)1899~1989年。一高・東大法卒。エール、ウィスコンシン、ジュネーヴ各大学留学。同盟通信社編集局長、常務理事を歴任。戦後は、国際文化会館の専務理事、理事長を歴任。。アメリカ学会の会長も務める。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%87%8D%E6%B2%BB
英国は「その投資が長期にわたるという特徴を有し、これが回収には、日中関係の安定を希望したことも事実だ。
商品市場としての中国の長江一帯の購買力増進のために、中国が財政を軍備過大の変態より救って、これを常態化せんがために、…日中関係の緩和を祈念していた」。
そして「従来より英国は、満州は日本の勢力範囲、中国は英国のものという独特の気持ちを…多分にもっていた」のであった。
それが、第一次上海事変により「事変が上海に及ぶにいたってからは、自分の縄張りを荒らされる危険を感じてその態度を急変したのであった」(『上海時代』)
⇒松本重治の『上海時代』は有名な本ですが、私がこの本を読んでいないのには、ここでは明かせない、入り組んだ事情があります。
さて、この英国の態度の急変ですが、揚子江流域を中心とした、英国の在支経済権益をもはや自らの軍事力では守れなくなっていたにもかかわらず、日本の軍事力の「進出」に嫉妬心を抱き、この日本の軍事力に依存するより、(自殺的愚策であるところの、)中国国民党政府に対する宥和政策・・これは反日政策を意味する・・を採用する、という利己的なものであったことを以前(コラム#4691で)記したことがあります。
まさに天罰が当たったと言うべきですが、日本の敗戦後まもなくして、英国は、(香港を除き、)支那内の経済権益を全て失う羽目になります。(太田)
このように我が国の国益を大きく損なった第一次上海事変であったが、国内世論は軍部を応援するものばかりであった。
事変を批判した新渡戸稲造<(注5)(コラム#51、182、219、495、614、1015、1437、1439、1600、1613Q&A、1628、2280Q&A、3199、3259、3600、4383、4475、4488、4788、5362、5678、6384)>は、暴論として新聞紙上でたたかれたのである。・・・
(注5)1862~1933年。「1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。・・・1928年(昭和3年)、・・・東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。・・・1932年(昭和7年)、・・・「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0
初代の国際連盟事務局次長だった新渡戸は「上海事変に関する当局の声明は、三百代言的という他はない。正当防衛とは申しかねる」と講演したが、それに対して昭和7年2月21日の『日本新聞』は「国論の統制を乱す、新渡戸博士の暴論」と報じた。同24日の『時事新報』は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、尚早将校ら立つ」と報じた・・・。・・・
⇒ラモントの前出の対日態度急変は、中国国民党の捏造『田中メモリアル』による諜報工作(コラム#5168)に乗せられたとしか思えませんが、新渡戸についても、留学や国際連盟事務局次長時代等を通じて米英に友人・知人が多かったことが災いし、彼ら経由で、日本人の大部分が一顧だに与えなかったこの捏造文書を信じ込んでしまった可能性が高い、と思います。
翌年、急死する新渡戸がこの時点で既に耄碌していた可能性を考慮したとしても、新渡戸は晩節を汚した、と断じるべきでしょう。(太田)
ちなみに、軍事的観点から見れば、事変は当時の変転極まりない中国の国内情勢の中で、日本軍にとって有利な状況を作り出すことになった。
日本軍の上海攻撃に際して中国共産党が国民党が手薄になった江西<(注6)>を攻めた結果、蒋介石が共産主義勢力の打倒を優先させる「先安内後攘外」政策を強めることになったからである(『上海時代』)。しかしながら、それは、その後の軍部の対中政策を一層暴走させる結果にしかならなかった。」(54~55、66)
(注6)中華ソビエト共和国。「1931年11月7日に、江西省瑞金を首都として中国共産党が樹立した政権。・・・主席は毛沢東。共産党軍(中国工農紅軍)が国民党軍(国民革命軍)の包囲から脱出し、長征に出る1934年10月に事実上消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
⇒松元が、松本の本の受け売りで、「蔣介石を中心とした中国国民政府は,まず共産軍を掃討したあと日本に当たるという〈安内攘外〉策をとり,日本の侵略に対して妥協的だったが,中国共産党は抗日統一戦線を提唱し,民衆の間にも内戦停止・一致抗日を求める運動が広がった。これに対して日本は日中提携・満州国承認・共同防共の広田三原則を中国に押しつけようとしたが,中国では国民政府による国内統一の進展と抗日救国運動の高揚を背景に36年末,西安事件を機として内戦停止が実現した。」(世界大百科事典)
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%86%85%E6%94%98%E5%A4%96-1266871
といった戦後日本における通説を信じて疑わない点に関しては、私自身、比較的最近までそう信じていただけに、彼を批判するのは酷かもしれませんが、「日本の侵略に対して妥協的だった」のは、むしろ中国共産党の方であり、中国国民<党>政府こそ、容共孫文の直系であって、しかも。跡取り息子を赤露に留学させていた蒋介石を戴き、党内部にコミンテルンの影響下にあった者達を多数抱えていたのであって、赤露の意向を汲んで「日本に当た」ろうとしていたのを、反赤露の中国共産党が足を引っ張り続けた、というのが実相だったのです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その5)
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