太田述正コラム#8342(2016.4.17)
<一財務官僚の先の大戦観(その7)>(2016.8.18公開)
「盧溝橋事件・・・直後に召集された第71特別議会(第一次近衛内閣)に提出された約1億円の追加予算案は、熊谷直太衆議院予算委員長が「重大なる時機に遭遇」しているとして「質疑省略」を提案、全員が「異議なし」としてわずか30分あまりで可決して本会議に報告された。
支那駐屯軍が華北で総攻撃を開始した後に提出された4億円の追加予算案も1日の審議で可決された。
昭和12年9月召集の第72臨時議会では、臨時軍事費特別会計が設けられ、20億円余に上る巨額の臨時軍事予算が簡単な審議で可決成立した。
⇒ここは、当時の雰囲気がよく分かって面白いですね。(太田)
当時、日中間の戦争回避に腐心していた外務省の石射猪太郎<(注10)(コラム#4719、6260、6262、6280、6284)>東亜局長は日記に「議会本日終了。20億と云う追加予算を精査もせずに通過した議会、他日国民に会わせる顔がなくなるであろう事を予想せる者、幾人ありや。憲政はサーベルの前に屈し終んぬ」と記していた(『石射猪太郎日記』)。
(注10)1887~1954年。「1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父から生活援助を受けながら外交官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B0%84%E7%8C%AA%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒石射は、上海の東亜同文書院・・石射卒業時にはまだ「大学」ではなかった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E6%9B%B8%E9%99%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
卒で、満鉄勤務歴があり、また、その後、外務省入省後も、広東、天津、上海勤務経験がある(上掲)と支那経験が豊富であるというのに、しかも、学歴等のハンデを跳ね返して局長ポストを射止めた「逸材」のはずなのに、これほど極楽とんぼ的な誤った支那情勢観を抱いてしまっていたことは不思議です。
私の大胆な仮説は、彼が受けた東亜同文書院の教育に問題があった、というものです。
同書院は、「「貿易富国」(日中が友好的に経済的発展をすることによってアジアの平和秩序を築く)を実現する商業活動の即戦力<を>養成<する>・・・ビジネス・スクール」であって、「儒学に基く教育」を行った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E4%B8%80
のですが、これは、日本人の支那人化、あえて厳しく言えば、日本人の阿Q化教育であった、という印象を持ちます。
そして、そのような教育を受けた石射の阿Q度は、支那勤務を重ねるにつれて、支那人・・その中には赤露の手先もいたはず・・との付き合い等を通じて深まっていった、と見たらどうか、と思うのです。
その石射を東亜局長にしたということは、阿Q的支那人を日本の対支那外交の要たるポストに、わざわざ抜擢までした就けたに等しいとも言えるのであって、1937年3月のこの彼の人事の内定時期・・石射の場合はタイ(駐シャム大使。石射のウィキペディア前掲)ですが、外地にいる外交官の異動人事は、異動準備期間が必要なので、少なくとも半年前までには決めなければならない・・における、広田弘毅首相、有田八郎外相、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
及び、堀内謙介外務次官
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7_%E5%A4%96%E5%8B%99%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%EF%BC%88%E5%A4%96%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%EF%BC%89
ら、人事権を持っていた彼の先輩たる外務官僚達の無責任ぶりには度し難いものがあります。
私は、名家の出身ではなく、自らも外交官試験に一度落ちている広田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
が、やはり名家の出身ではなく、外交官試験に一度落ちていて(石射のウィキペディア前掲)、しかも自分とは違って大学すら出ていないからこそ、妙に親近感を抱き、石射を拾い上げたのではないか、と想像を逞しくしているのですが、どんなものでしょうか。(太田)
議会が全体として翼賛的になっても議会人の中には軍部への牽制を続けた者がいた。
その最後が、昭和15年の斎藤隆夫の「反軍演説」であった。
同演説に対しては、対米融和派の米内光政首相(海軍大将)や畑俊六陸相は、なかなかうまいことを言うものだと受け取ったとされているが、政友会の親軍派の代議士達が武藤軍務局長に問題だと働きかけて斎藤は議会から除名された。」(59~60)
⇒斎藤及び斎藤演説については、既に触れたところです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その7)
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