太田述正コラム#8346(2016.4.19)
<一財務官僚の先の大戦観(その9)>(2016.8.20公開)
「昭和12年8月・・・に起こったのが第二次上海事件であった。
事変の原因について『第百一師団長日誌』は、蒋介石の承認を受けての国民党軍張治中<(注11)>司令官の日本陸戦隊に対する包囲先制攻撃だったとしている。
(注11)1890~1969年。「1949年・・・1月、代理総統李宗仁の指示により、国民党側の和平交渉代表団となり、北平で共産党との和平交渉を行ったが、失敗に終わる。そして張は、そのまま北平に留まり、共産党政権への参加意思を示した。中華人民共和国では、西北行政委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会副委員長、国防委員会副主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会(民革)中央副主席などを歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%B2%BB%E4%B8%AD
⇒ジュン・チャンらによる『マオ 誰も知らなかった毛沢東(Mao: The Unknown Story)』(2005年。邦訳2005~2006年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AA_%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
(コラム#1831Q&A)は、張治中は、ソ連のスパイであったとした上で、蒋介石の許可なしに大山海軍中尉殺害事件を仕組んで日本軍を挑発したとしており(コラム#6268)、そうであるとすれば、張によるその後の先制攻撃も、蒋介石の思惑反したものであった可能性が高いところ、松元は、この本に言及すらしていません。
なお、中国共産党が、張を最後まで中国共産党員にしなかったらしいことは、彼が赤露直系であったこと、すなわち、チャンらの主張するように「ソ連のスパイ」であったこと、の傍証であると言えそうです。(太田)
第二次上海事変では、国民政府航空委員会顧問に就任していた米国人シェンノート<(コラム#6413)>に指導されていた中国空軍による日本軍拠点への爆撃が行われ、それに対して日本軍は木更津航空隊の渡洋爆撃などで対抗した。
中国軍機が共同租界を誤爆したために、第一次上海事変の時のような対日批判は起こらなかった。
事変勃発から約一か月後の9月16日付の『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン』紙は「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた。
上海事変の延長線上に行われた南京攻略の約一か月後、昭和13年1月には近衛首相が「国民政府を対手とせず」との声明を出すことになるが、その背景には、上海事変が中国から仕掛けられたものだったとの感覚があったといえよう。」(60~61)
⇒松元は、第二次上海事件に関しては、彼としては珍しく、はっきり支那側責任論に立っています。(太田)
「<それまでドイツの蒋介石政権に対する肩入れ>があったにもかかわらず、第二次上海事変後に、我が国では急速に親独感情が高まっていった。
その背景には、ドイツによる我が国のマスコミ等への強力な工作と、ドイツに留学していた日本海軍の軍人に対するハニー・トラップがあったとされている(半藤一利『ノモンハンの夏』)。
⇒私も『ノモンハンの夏』(コラム#3774、3794)を読んでいますが、「マスコミ等への強力な工作」はともかく、「ハニー・トラップ」の記述は全く記憶にありません。
後者に関しては、そういうことがあったとして、情報漏洩はありえても、そんなことで海軍の対独観が変わるわけがありません。(太田)
ドイツは、当時の欧州をめぐる複雑な国際情勢の中で、第二次上海事変後には、蒋介石政権に肩入れするソ連を牽制するために日本との日独防共協定(昭和11年11月)を軍事同盟(昭和15年9月)に格上げすべく強力な対日工作を展開するようになる。
南京攻略の2か月後の昭和13年2月には、<ヒットラー>総統が<ドイツ>国会で満州国承認と<中国国民党政権>に派遣していた軍事顧問団の引き上げを表明して蒋介石に対する支援を停止したのである。」(64)
⇒1935年に、コミンテルン大会、すなわち、赤露、が、「<第一に、>一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定し・・・第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国<・・中国国民党政権のことと見てよい(太田)・・>を重用すること<としたことを受け、>コミンテルンの主な攻撃目標にされた日本とドイツは1936年11月25日に日独防共協定を調印した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
という背景を踏まえれば、「当時の欧州をめぐる・・・国際情勢」は「複雑」どころか、明快そのものであって、ヒットラーは、日独を共産化戦略の主標的とするとの赤露の新戦略決定を受け、容共ファシスト政権であった中国国民党政権への肩入れを続けることは、同政権の容共化を促進するとともに、同政権を日本と戦わせて日本を疲弊させ、日本を共産化させる、という赤露の目論見に利用されるだけであることを自覚し、まず、赤露のもう一つの主標的となった日本と提携すべく、日独防共協定を締結し、次いで、満州国承認と中国国民党への支援中止を行い、更に、日本との同盟関係樹立を目指しところ、背に腹は代えられない日本としてもそれらの動きを歓迎した、というだけのことです。
松元は、赤露(ソ連)ファクターを勘案することから逃げ回っているため、当時の「欧州をめぐる・・・国際情勢」が、いかにも「複雑」に見えたのでしょうね。
なお、その後、「1939年・・・8月23日にドイツ・・・が突然<赤露>と独ソ不可侵条約を締結したことを受けて・・・平沼騏一郎・・・首相<が>・・・いわゆる「複雑怪奇」声明を残して内閣総辞職した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E5%86%85%E9%96%A3
のは、これがヒットラーの完全な欺罔行動であった上、そんな欺罔行動に、欺罔言動の達人であるスターリンが乗せられてしまったことがもたらした、文字通りの椿事であったところ、その出来を全く予想できなかったからといって、平沼を批判することは、私にはできません。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その9)
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