太田述正コラム#8358(2016.4.25)
<一財務官僚の先の大戦観(その13)>(2016.8.26公開)
「西安事件が起こった時点で、蒋介石は強力な軍事力を擁して、まずは国内の共産勢力を駆逐する「先安内後攘外」政策を着実に進めており、「先安内」について北西部の共産党の掃討を残すのみとなっていた(<加藤陽子>『満州事変から日中戦争へ』)。
それが、西安事件によって第二次国共合作(締結は昭和12年9月)へ向けての合意が出来上がり、「先安内」政策が180度変更されたことから「一年余にして、中共の勢力は西北を基盤とし、巌々乎として華中を圧しきたり(中略)。紅軍は民衆武装の実践と訓練とに余念なく、その実力は漸次強大化しつつある」(「事変第二期に入る」)との状況になった」(『上海時代』)。
⇒西安事件から始まる、支那及び支那を巡る諸情勢は、コミンテルン=赤露、の1936年夏に決定した目論見通りに進行していくわけですが、この目論見は公表されていた・・当時の日本の新聞で紹介されている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
にもかかわらず、どうして、日独だけはそれを深刻に受け止めたものの、英米(と仏)がそれを良く言えば意に介さないかのような、悪く言えば、赤露の目論見に積極的に乗った対日独政策をとり始めたのか、不思議でなりません。
もとより、対日政策に関して言えば、英国は、(全て前に示唆したことがありますが、)最大の競争相手たる日本を退けて支那における利権維持を図ろうとした、米国、とりわけ、ローズベルト大統領は、支那へのキリスト教の普及を図るとともに黄色人種の国である日本が東アジアの地域覇権国になることを阻止したかった、ことは言えるとしても、とりわけ、英国については、どうして、その有力政治家達の判断能力がかくも急に甚だしく劣化してしまったのか、いまだにすっきり解明できていません。(太田)
そのような状況下、ソ連は、盧溝橋事件勃発一か月半後の8月21日には蒋介石政権と不可侵条約を結び、武器輸出(主として飛行機)を月々に増大させていった。
その額は判明しているだけでも昭和12年12月の2295万元余が昭和13年2月から3月には4523万元に急増している。
⇒英米に比べて、一見更に理解が困難なのが、蒋介石政権までもが、中国共産党を壊滅させる寸前まできていたというのに、上記赤露の目論見に積極的に乗ってしまった・・結果的にそれが同政権にとって命取りになった・・ことです。
私は、次のように考えるに至っています。
蒋介石は、1936年12月12日に西安事件が起きる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
直前の11月25日に日独防共協定・・共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書・・が調印された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
ことから、爾後、ドイツからの軍事的支援が先細りになることを予見し、「先安内」が中国共産党壊滅によって成就した後の「後攘外」、すなわち、日本の支那本土、及び満州での影響力の大幅減殺を図ることが困難になることもさることながら、それ以前に、そもそも自らの中国国民党内外での権力の維持が困難になることを予感し、容共と中国共産党との合作を条件として独に代わっての軍事的支援の提供の申し出が恐らくは密かに既にあったところの、赤露との提携を模索し始めていた、と見たらどうか、と。
そして、「危険」を予見しつつも、いや、予見した・・同事件が張学良の単独「犯行」ではなく楊虎城との共謀であったこともあり、国民党内に諜報網を張り巡らしていたはずの蒋介石が、不穏な動きに全く気付いていなかったとは考えにくい・・からこそ、西安に蒋介石は乗り込んで、赤露提示の条件をクリアしようとした、と、私は大胆に考えてみたいのです。
蒋介石は、脅迫によってであれ何であれ、事件中に行った、中国共産党との「合意」を反故にするつもりなど全くかったのだ、と。
事件「解決」後、この共謀者たる2人を、殺しもせず、さりとて、復権もさせず、拘禁し続け、国共内戦で敗北が目前になった時、揚は殺したけれど張は台湾まで連れて行って死ぬまで拘禁を続けるという、分かりにくい措置を取ったところからも、私は蒋介石の、今記したような本心が透けて見えてくるような気がするのですが・・。(太田)
英国の本格的な蒋介石支援の背景になったのも西安事件であった。
西安事件までの中英関係は基本的に敵対的といってよいものであった。
昭和2年に蒋介石政権が漢口、九江の英国租界を実力によって回収して以来の英貨排斥が続いていたのである。
ところが西安事件に際して、英国が蒋介石の生命を保証する国際的な動きのイニシヤティブをとったことから英中関係は劇的に好転した。
⇒この話は知りませんでした。(太田)
中国はアヘン戦争以来ほとんど初めて親英的になった。
親英的になった中国は、南京陥落1ヵ月後の昭和13年1月には、日本も参加していた四国借款団<(注14)>を無視する形で、英国に対して鉄道借款を申し入れるといった形で中英関係を改善していった(三谷太一郎『国際金融資本とアジアの戦争」)。
(注14)1910年の独仏英米が支那における鉄道建設などのために借款団を結成したが、計画は殆ど実現しなかった(四国借款団)。1920年には英米仏日によって改めて結成された(新四国借款団)。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%80%9F%E6%AC%BE%E5%9B%A3-1541906
その一方で、日英関係は、その後、池田成彬<(注15)>蔵相がが親英路線を打ち出したことから一時は好転するかに見えたが、昭和13年4月からの徐州作戦における漢口攻略後に池田蔵相の路線が否定されると、英国は対日関係に見切りをつけて蒋介石政権への支援を本格化していった。
(注15)1867~1950年。慶應義塾を経てハーヴァード大卒(?)。その後、三井財閥の事実上の総帥、日銀総裁、蔵相兼商工相、枢密顧問官。「<米国>と戦争すべきではないとし、太平洋戦争に反対し東条英機と対峙した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%88%90%E5%BD%AC
⇒このくだりについては、判断を留保したいと思います。(太田)
昭和14年<(1939年)>1月にはワシントンの英国大使館において英米首脳が会談し「中国の通貨システムが日本軍によって崩壊の危機に晒されている」との認識で一致した。
その認識の上に、英国は、同年3月、法幣<(注16)>安定基金設置法案を成立させて中国通貨安定のために1000万ポンド(翌15年には5000万ポンド)を拠出した。
(注16)「<1935年に>通貨面でのA(<米>)B(<英>)C(中国)連合が成立し・・・<支那>史上で初めての<(法幣という紙幣による)>管理通貨体制への移行<が>短期間で成功し・・・国民政府は、軍事的統一・政治的統一に加えて、金融・通貨の統一にも成功した。・・・<なお、>法幣」は、<英>ポンドにリンクされており(1元=1シリング2.5ペンス)・・・<そ>の印刷も英米が担当した。・・・しかしこの時、すでに「満州国」という名に変わってしまっていた東北地域については、「法幣」が通用することはなかった。・・・
この幣制改革に対しては、日本政府は協力を拒んだ。日本は1932年に「満州国」を成立させており、これと地続きの華北地方を国民党支配から切り離す「北支分離工作」を展開していたので、国民党による<支那>通貨統一事業は邪魔だったのである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E6%9C%9F%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
昭和15年には米国も2500万ドルを拠出した。
このようにして英米両国は蒋介石政権への金融支援を行い、更に対中武器援助も本格化させていったのである。
米国の蒋介石支援は、英国に遅れて始まったが、やがて英国を追い越して積極化していった。
<ロ>ーズベルト大統領以前の米国は、中国大陸に権益を有しなかったこともあって、東亜不干渉的政策をとっていた。
その背景には、12万人もの戦死者を出した第一次世界大戦のような戦争に二度と巻き込まれたくないとの意見が大勢を占めていた世論があった。
日本の外交も、対英とは異なり対米は基本的に友好的であった。
中国戦線での戦闘に米国から輸入する武器、資材が重要であったこともあり、英国の「帝国主義」を批判の標的にする一方で、米国とは協調関係を保持しようと努めていた(井上寿一『アジア主義を問いなおす』)。
その流れを変えていったのがルーズベルト大統領であり、そして、それを助長したのが大陸での強攻策に固執した日本軍であった。」(73~75)
⇒最後のセンテンスの後段は完全な史実の歪曲ですが、その部分を除き、松元の言う通りです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その13)
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