太田述正コラム#8364(2016.4.28)
<一財務官僚の先の大戦観(その16)>(2016.8.29公開)
「最終的に中国大陸での勝利者となった毛沢東は、日本軍を蒋介石軍とたたかわせて漁夫の利を得るという戦略を持っていた。
盧溝橋事件発生時点で「日中開戦となれば、毛沢東の思う壺」(『上海時代』)だったのである。
そのことは、戦後の昭和39年7月に・・・「われわれ中国共産党は・・・日本軍国主義に感謝しなくてはなりません。日本がもし中国に侵略していなかったら、共産党の勝利はなかったし、新中国の成立もなかったからです」と述べていることからもうかがわれる<ように、>毛沢東にとっては、日本軍も中国大陸に数多く割拠していた軍閥の一つにすぎなかったのであろう。
⇒私のように、毛沢東発言について、自分達は日本軍と事実上同盟関係で戦ったと語ったものと額面通りに受け止めよ、とまで松元に求めるのは酷だとしても、この発言について、松元のような、日本軍を貶めるような解釈がどうしてできるのか、私には到底理解できません。(太田)
毛沢東は、日本降伏後にいち早く満州に軍隊を送り、ソ連軍の保護のもとに日本軍の大量の武器と装備を接収し、人員を訓練した。
満州は、14年前の日本による開発の結果、中国の重工業の7割が集中し、対ソ戦に備えた関東軍の兵器が大量に集積された地域になっていた。
兵器や軍用資材はソ連が侵攻した北朝鮮からも運ばれた。
もちろん、国民党軍も米国からの支援で武装しており、それだけで国共内戦での共産党軍の圧倒的な勝利を説明することはできない。
より重要なのは、戦闘の過程における国民党軍からの寝返りで、それによって共産党軍は「雪だるま式」に戦闘力を拡充させていったのであった(『中華人民共和国誕生の社会史』)
⇒松元が拠っている『中華人民共和国誕生の社会史』(2011年)は、笹川裕史による、四川省を主な対象とする著作であり、同省は、重慶を擁していたところ、「日中戦争では・・・その大部分の時期、国民党の国民政府が重慶を臨時首都にしていたし、1949年首都南京を<再び>失った国民党政権の大陸での最後の根拠地になった」という特殊な地域であって、「日中戦争でも内戦でも前線になることがなかった四川省<は、>1949年12月に<もなって、>・・・省の最高支配層(実態は国民党内の軍閥的勢力)が共産党側に「寝返る」ことによって共産党政権(すでに中華人民共和国が<10月1日に>成立していた)の支配下に入<った>」ものであり、
http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/224/1/hougaku-76_89-105.pdf
この著作を根拠に、「国民党軍からの寝返りで、それによって共産党軍は「雪だるま式」に戦闘力を拡充させていった」などとは到底言えないはずです。
ここで、国共内戦の経過を簡単に振り返っておきましょう。↓
「日本軍の前面に立って戦力を消耗していた国民政府軍に対して共産党軍は、後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。・・・ 共産党は、戦後・・・日本軍から・・・兵器を鹵獲する<とともに>、ソ連からの援助も継続して受けており、国民革命軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得<るに至ってい>た。共産党軍は、徐々に南下して国民政府軍を圧迫<した、>。・・・
1945年・・・10月10日に<国共内戦が始まったが、>・・・毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生<した。>・・・
1946年6月・・・<国共調停のために支那に派遣されていたジョージ・>マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蒋介石にその行動を非難するメッセージを送っている。マーシャルは当時トルーマン大統領に、国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蒋介石にあるとして非難している。またトルーマン大統領自身も、国民党への不満を後に表明している。1946年12月18日、トルーマン大統領はマーシャル将軍の召喚と中国内戦からの<米国>の撤退を表明する。・・・
<他方、>蒋介石は満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民<党>軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。・・・
<しかし、>毛沢東は<1947年>3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導し・・・「人民戦争」「持久戦争」の戦略で<抵抗した結果>・・・農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返していく。1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役」で、共産党軍は決定的に勝利する。・・・
最終的には毛沢東率いる共産党が総攻撃をしかけ、北京、南京、上海などの主要都市を占領、1949年10月1日に共産党による中華人民共和国が成立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
ちなみに、この日本語ウィキペディアには、(当然ながらと言うべきか、)松元の上掲主張を裏付ける話は出てきません。
さて、上で摘出紹介した、国共内戦の経過からお分かりいただけるのではないかと思うのですが、国共内戦が始まった時点で、両者の兵力がほぼ拮抗していたこと、共産党側が民意の支持を得ていたこと、から、その後半年ちょっとで国民党側が米国から軍事支援が得られなくなった時点で、(更にその後でいくら共産党側もソ連からの支援が「消極的なものにな」ったとはいえ、)共産党側が最終的に勝利するであろうことは、既に決まっていたも同然であったのです。
より銘記すべきは、国共内戦の最終場面で、赤露(ソ連)が、国際的にはその手先であることが当然視されていた中国共産党を、公然と見捨て、国民党を支援する姿勢を鮮明に打ち出したことです。
これは、赤露の対東アジア戦略が、一貫して、容共ファシスト集団である中国国民党支援によるところの、日本及び欧米勢力、並びに、(赤露、及び、日本軍上層部だけが知っていたことですが、実は)反赤露集団であった中国共産党、との敵対であった、という私の最新の主張を踏まえない限り、およそ説明がつかないはずなのです。
もう一つ、改めて呆れざるを得ないのは、ジョージ・ケナンのモスクワ発の1946年2月22日付の「長文電報 (Long telegram)」を受け、トルーマン政権の中で、翌1947年3月12日に公表される赤露封じ込め政策(トルーマンドクトリン)決定に至る、冷戦初期の慌ただしい状況下
https://ja.wikipedia.org/wiki/X%E8%AB%96%E6%96%87
において、その真っ最中の1946年6月に、支那を中国共産党に引き渡すに等しい重大な政策決定を米国が行ったことです。
あの国際情勢音痴の米国が、この時点で、旧日本陸軍とほぼ同じ、赤露、及び、国民党、中国共産党観に到達するに至っていたことなど到底ありえないだけに、米国政府内で戦中に積もり積もっていた国民党に対する悪感情が、単に臨界に達した、というだけのことだったのではないでしょうか。
わずかその4年余の後の1950年10月には、米国は、朝鮮半島で、中国共産党軍と干戈を交えることになる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
ことを思えば、その愚かさに、ただただ失笑するほかありません。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その16)
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