太田述正コラム#8366(2016.4.29)
<一財務官僚の先の大戦観(その17)>(2016.8.30公開)
「昭和14年<(1939年)>8月、独ソ不可侵条約が締結されてポーランドが分割されると、中国ではソ連が日本とも同様の条約を締結して中国北部を分割することが危惧された。
しかしながら、当時、日本とソ連は満州とモンゴルの国境のノモンハンで死闘を繰り広げていた最中(昭和14年5~9月)で、それは平沼騏一郎内閣を「欧州情勢は複雑怪奇」として退陣に追い込むだけに終わった。
⇒松元だけではありませんが、ノモンハンに至る、一連の事実上の日ソ熱戦を、支那本土の軍事状況と切り離して論じる者ばかりなのは、困ったものです。
かなりの分量になってしまいましたが、以下の経緯を一瞥してください。↓
「≪「1933年(昭和8年)1月1日<に>山海関事件<が起こり、>・・・2月23日 – 日本軍<は>熱河省侵攻<作戦を敢行した。>・・・
<これを受け、>5月31日、日中<間で>・・・塘沽協定が結ばれ・・・中国軍は蘆台~通州~延慶のライン以南まで撤退し、・・・また長城以南に非武装地帯が設定され、中国国民党政府は満州国と長城線の国境を事実上認めた。・・・
<その後の>10月16日、蒋介石は第五次包囲討(囲剿)作戦を開始、・・・翌1934年4月28日、共産軍から広昌を、5月16日には建寧を8月31日には駅前を、10月には石城、興国を奪回し、共産党は壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。10月14日から中国共産党の長征がはじまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 ≫
1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した<が、>以降、・・・軍事衝突が増えた。1935年6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。・・・
≪「<日本は、>は<1935年>5月2日に起きた天津の親日新聞社長暗殺事件をうけて国民党政府機関の閉鎖、河北省からの中国軍撤退、排日の禁止などを要求した6月10日の梅津・何応欽協定を締結する。・・・また、6月5日に関東軍特務機関員が宋哲元の国民党29軍に拘留されたことに対して、6月27日、・・・土肥原・秦徳純協定をむすび、これよって国民党機関の撤退を要求し、チャハル省を大日本帝国の勢力下に置いた。 1935年の北支は国民政府による搾取や重税から北支軍閥や市民の中で不満が高まると共に満州の急速な発展を目の当りにし、蒋介石の影響力は後退、1935年6月には白堅武が豊台事変を起こし親日満政権を樹立を図ろうとクーデターを起こしたが失敗、10月には国民党の増税に反発し農民が蒋政権に反発し自治要求を求め香河事件が発生するなど河北省・山東省・山西省などで民衆の政治・経済的不満が高まり、自治運動が高まってきていた。1935年8月には、満州から天津行きの列車が反日組織に襲撃され、20人の乗客が殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 ≫
「<ソ連は、>コミンテルン世界大会<を>・・・1935年7月25日から8月20日にかけて・・・開催<し>、・・・ファシズム反対、戦争反対の議論に加え、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びに・・・共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒には<英仏米>の資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用する・・・<という>活動方針を決定<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3 前掲≫
同1935年12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。・・・
1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件)。・・・
1936年(昭和11年)3月29日、タウラン事件が発生。オラホドガ偵察任務の渋谷支隊(歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州軍トラックが破壊された。モンゴル軍は騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は戦死13名、捕虜1名、トラックの大半が損傷、モンゴル軍も装甲車を鹵獲された。本格的機甲戦や空中戦はなかったが、装甲車両や航空機を投入した近代戦となった。同1936年3月、長嶺子付近でも日ソ両軍が交戦し、双方に死傷者が出た(長嶺子事件)。
1936年にはへレムテ事件、アダクドラン事件、ボイル湖事件、ボルンデルス事件など衝突が激化<した、>・・・
≪なお、「左派の人民戦線政府(共和国派)と・・・右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った・・・スペイン内戦」が、1936年7月~1939年3月、行われ、左派が敗北している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%86%85%E6%88%A6 ≫
日本は・・・1936年(昭和11年)8月7日<に>・・・決定した帝国国防方針で、ソ連は「赤化進出を企図し、益々帝国をして不利の地位に至らしめつつあり」と書かれた。さらに<日本は>・・・1936年11月25日にドイツと日独防共協定を締結した。
日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)以降、<日ソ/蒙>紛争件数は年間100件を超えた。・・・
1937年(昭和12年)6月・・・、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争である乾岔子島事件が起きた。・・・6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。・・・<更に、>6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州側に進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、・・・7月2日にソ連軍は撤収した。・・・
≪(盧溝橋事件勃発は1937年7月7日。)「ソ連は・・・1937年9月から・・・中国に<軍事援助を開始。>1941年6月までの間に・・・飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両<提供>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 前掲≫
1938年(昭和13年)7月、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。7月中旬にソ連軍が張鼓峰に進軍、日本の朝鮮軍隷下第19師団も警備を強化した。日本の国境守備隊監視兵が射殺されたのをきっかけに7月29日から戦闘が始まった。・・・<が>8月11日に停戦。・・・動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1500人、ソ連軍3500人であった。
≪突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦)。・・・10月27日 – 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領・・・武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した。・・・
1939年<に>・・・は1月からの重慶爆撃、2月10日の海南島上陸、3月の海州など江蘇省の要所占領、3月27日の南昌攻略などが・・・4月 – 中国軍、南支で春季反撃作戦。
1939年・・・5月11日、ノモンハン事件勃発・・・8月23日 – 独ソ不可侵条約締結。・・・9月1日 – 欧州で第二次世界大戦勃発。・・・9月15日 – ノモンハン事件停戦協定成立。」(上掲)≫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (≪≫内を除く。)
↑以上から見えてくるのは、少なくとも1935年初頭から、赤露(ソ連)が、自国に比して(政党勢力の妨害で)軍拡競争に後れをとっていた日本をして、しかもその日本を全力をソ連に志向できない状態に追い込んだ上で、対ソ開戦せざるをえなくさせる、という戦略を推進した、ということです。
(ソ連から開戦するわけにいかなかったのは、「戦争反対」スローガンを掲げていたがゆえです。)
そのための、必須の条件が、第一に、傀儡の蒙古、及び、自らによる対日軍事挑発の繰り返しであり、第二に、容赤露ファシスト集団であったところの、子飼いの中国国民党に対日開戦をさせることであり、第三に、その中国国民党を英米に支援させ、更に、この英米に、まず事実上、次いで公式に対日参戦させることでした。
第二については、赤露敵対勢力であった中国共産党までもをダシに使うことで成功し、第三についても、愚かな英米を誑し込むことによって成功を収めたものの、(日支戦争に空軍の正規部隊を参戦までさせた(前出)というのに、)日本は対赤露開戦に踏み切ってくれず、あろうことか、その4年後にもなって、ソ連にとって最も不都合な時期であったところの、独ソ戦直後に踏み切りそうになって、ソ連を慌てさせることになります。↓
「独ソ戦(1941年6月22日開戦)が始まった直後の1941年7月に行なわれた「関東軍特種演習」は、実際には単なる軍事演習ではなく、関東軍による対ソ連開戦を見据えた軍備増強政策だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%89%B9%E7%A8%AE%E6%BC%94%E7%BF%92
結局、ソ連は、英米の懇請を受けてやむをえずという形が整った、1945年8月になって、自国の側からの対日開戦を行うのです。
しかし、その時点では、既に、日本の手によって、子飼いの中国国民党勢力は甚だしく弱体化してしまっており、肝心の支那を全面的に失い、かつ、南樺太と千島列島こそ得たものの、日本本体は、新たに最大の敵と化した米国の属国になる、という無惨な結果に終わった、というわけです。(太田)
そもそも、日清戦争以降、日本軍が一貫して仮想敵国と考えていたのはロシアであり、ソ連だったのである。
⇒「日清戦争以降」には日清戦争が入っているのでしょうが、ここは松元に拍手を送りたいと思います。
但し、「日清戦争以降」じゃなく、「江戸時代以来」ですが、ここも大目に見ることにしましょう。
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その17)
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