太田述正コラム#8376(2016.5.4)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その2)>(2016.9.4公開)
 「<こうして、>ヤマトに、そして東アジアに最初の女帝が誕生した。
 翌年、彼女は20歳に達した厩戸(うまやど)<(注3)>を摂政・太子として政治のすべてを一任した、と『日本書紀』は記す。
 (注3)57~622年。「橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。・・・
 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
 しかしこの記事は、現在では聖徳太子賛美の影響をうけた『日本書紀』の潤色とみる説が有力である。
⇒以上は、通説と言ってよさそうですが、私は、「ヤマト・・・そして東アジア・・・最初の女帝」というくだりに、下掲の理由から、根本的な疑問を持っています。(太田)
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[推古最初の女帝説への疑問]
 皇祖神の天照大神(アマテラス)が女性であったことが第一点だ。
 このアマテラスだが、下掲を参照されたい。↓
 「夫<は>いない・・・最高神アマテラスの造形には、女帝の持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)や、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある。・・・邪馬台国東遷説を主張する論者は、天照大神を邪馬台国の女王卑弥呼が神話化されたものと考える人が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
 「アメノオシホミミ<は、>・・・アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の<一人>・・・。・・・オシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%9B%E3%83%9F%E3%83%9F
 これらのことは、初期の天皇家においては、本来、女性が首長であったことを推察させる。
 そして、アマテラスが独身を通したこと、男性の養子を後継者としたこと、は、日本書紀等が編纂された時点で、例外化していた女性の天皇の姿が、アマテラスに逆投影された、と見るわけだ。
 次に、邪馬台国の歴代の首長(王)が女性であった可能性が大である(注4)ことが第二点だ。
 (注4)女性であった「卑弥呼(ひみこ、生年不明~247年あるいは248年頃)・・・<の>後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E4%B8%8E
 邪馬台国はヤマト王権の初期と見る説が近年「勢いを増して」おり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E4%B8%8E
「卑弥呼を<日本書紀、古事記に登場する>百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる<学者>」がいるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
私はこの説が正しいと思っているところ、そうだとすれば、ここからも、ヤマト王権の初期は、天皇には女性が即位する例が多かった、ということになる。
 なお、「倭国で男性の王の時代が続いた(70~80年間)が、その後に内乱があり(5~6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。・・・<彼女は>鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。・・・<そして、>既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
と「誤って(太田)」魏に伝えられたのは、東アジア一般では(皇帝や国王が即軍事司令官でなければならず、)女性が即位することなどありえなかったことから、魏に対して倭における女性の首長の存在を韜晦して伝える・・女性の首長は例外的存在、だからこそ実子ができないよう独身を通す、在位中は実権は男性が担う、という印象を与える・・ことで、朝貢貿易をしてもらい、かつ、冊封を受けること、を容易にすることが狙いだったのではなかろうか。
 (「景初二年(238年)12月 – 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。」(上掲))
 なお、「『日本書紀』は、・・・舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した・・・日本に伝存する最古の正史・・・<で、>漢文・編年体をと<り、>・・・神代から持統天皇の時代までを扱<っている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
ところ、想像するに、日本で久しぶりに出現したところの、女性天皇たる推古が、遣隋使を派遣した(後出)際、自らを「卑弥呼」に、厩戸を「卑弥呼の弟」に比定して韜晦して隋に伝えたところ、日本書紀は、このタテマエ論をそのまま記述した、ということではなかろうか。
 最後に、れっきとしたヤマト王権下の神功皇后(注5)や飯豊皇女(注6)が、それぞれ、まさに女帝だったのではないか、という有力説があること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87
が第三点だ。
 (注5)「神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年~神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。・・・応神天皇の母であり、・・・三韓征伐を指揮した逸話で知られる。・・・武家社会の神である八幡神の母にあたる神<でもある。>・・・
 『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とある。
 明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝と数えられていた<。但し、>・・・現在では実在説と非実在説が並存している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
 (注6)「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ、允恭天皇29年(440年)?~清寧天皇5年(484年)11月?)は、記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。・・・
 『日本書紀』によれば、執政期間は短くわずか10箇月余りで、清寧天皇5年(484年)11月に薨去(実際は「崩」と表記し、天皇扱いにしている)。・・・
 『日本書紀』<は、>編年の都合上、飯豊女王の執政期間を切り詰めたのではないかと疑われ<てい>る。・・・
 明治時代から昭和20年までには「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称している。これは不即位天皇としての扱いである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E9%9D%92%E7%9A%87%E5%A5%B3
 私も、この説に同感だ。
 以上から、推古は、倭/日本において、久しぶりに出現した、しかし、先例がいくらでもあったところの、女性首長/天皇であった、と言うべきだろう。(太田)
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 この時点での厩戸の起用は、さしあたり推古と馬子のあいだのクッションとしての期待であろう。
 推古は馬子の単なる美しい操り人形ではなかった。
 その即位の当初から(仏教の興隆)を二人の共通の課題として命じた以外は、主として政治を馬子に、文化としての宗教を厩戸にと見事に振り分けている。」(9)
⇒馬子と厩戸の役割分担説の根拠が示されていませんが、「推古<が>・・・操り人形ではなかった」ことはその通りでしょうね。(太田)
(続く)