太田述正コラム#8378(2016.5.5)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その3)>(2016.9.5公開)
「推古には、兵を結集して圧力はかけるが干戈は交えないという独自の信念–いわば非戦の思想とでもいうべきものがみられる。
即位まもない3年には、<殺害された前天皇の>崇峻が任那再興支援のために筑紫に集結した軍を撤収している。・・・
推古8年、ヤマトは任那救援のため、蘇我一族の境部(さかいべ)を大将軍(おおいくさのきみ)として一万余の軍を新羅に送る。・・・
新羅王・真平は「その威に怖じて」白旗を掲げ、ヤマトの将軍たちも「強いて撃たむはあらじ」(あえて攻撃するまでもない)、と威嚇の矛を収めた。
圧迫すれども干戈を交えずの女帝の信念の反映であろう。・・・
10年、推古朝は再び新羅への出兵を決定するが、この回は、推古の理念をなぞるような展開となった。
大将軍となった厩戸の同母弟・来目(くめ)は2万5千の兵を筑紫に結集したが、・・・兵糧を大船に積み込んだだけで、「来目皇子、病に臥して征討つことを果さず」、その翌11年に死亡、後任として征新羅将軍となった当麻(たぎま)も厩戸の異母兄であるが、難波から船出したわずか3日後に従軍した妻が船中で死亡すると、その喪を口実に任務を放棄してしまう。
この当麻の行動はいかにも異常であるが、何らの咎めもせず、後任も選ばないまま、新羅出兵を立ち消えにしてしまった推古の処置も異常といえる。
甥にあたる厩戸の二人の兄弟の心身上の弱点を承知のうえであえて任命したとしか思えない人選と、その責任を曖昧にしてしまったのは、やはり女帝の政治力であったであろう。」(10~12)
⇒入江が、史実をいかなる典拠に拠っているのか定かではありませんが、史実が正しいとして、その解釈は、それが入江のオリジナルであればですが、なかなか秀逸だと思います。(太田)
「第三次の海外出兵が雲散霧消したその年、官位十二階<(注7)>の完成をみる。
(注7)「604年に制定され、605年から648年まで行なわれた冠位である。日本で初めての冠位・位階であった。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。・・・
前代の氏姓制度と異なり、氏ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象にならない。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので・・・大化3年(647年)に七色十三階冠が制定され、翌大化4年(648年)4月1日に廃止されたが、その後もいくたびかの改変を経て律令制の位階制度となり、遺制は現代まで及ぶ。
冠と結びつかないが同様に人に等級を付ける制度は高句麗・新羅・百済の官位があり、日本の冠位に先行している。同じ時代の隋・唐の官品には似ないが、より以前の漢代や南北朝時代の思想制度の影響が指摘される。・・・
新羅や百済に対して歴史的な優越を主張し、小中華として振る舞うことを望んだ当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣は絶対に避けねばならず、<支那>に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、<支那>的な礼秩序を、朝鮮三国とも<支那>とも異なる方法で示すための制度であったと言える。・・・
蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった。・・・
中央の有力豪族と畿内周辺の地方豪族が冠位を授かり、他地域の地方豪族はもらわなかった。朝廷の支配力の限界である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E
その翌年、推古12(604)年・・・には・・・十七条の憲法<(コラム#1205、1210、2983、2989、2998、3001、6716、7854、7856、8200、8297)>によって、国政に携り百姓(おおみたから)<(注8)>を支配する者としてのあるべき心構えを規定する。
(注8)「百姓<は、>・・・日本固有の大和言葉では、「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民」を意味する、「おおみたから」の和訓がふられている。・・・
古代においては律令制のもとで戸籍に「良」と分類された有姓階層全体、すなわち貴族、官人、公民、雑色人(品部及び雑戸)が百姓であり、天皇、及び「賎」とされた無姓の奴婢などの賎民、及び化外の民とされた蝦夷などを除外した概念であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A7%93
神武天皇の橿原奠都の詔:「苟(いやし)くも・・・民(おおみたから)・・・に利(かが)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)はむ」(「日本書紀」巻第三)
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20090210
⇒仮に賎民が除かれていたとしても、少なくとも天皇以外のすべての「国」民がおしなべて「おおみたから」とみなされていた、という意味で平等であったことと、それが天皇にとっての「宝」とみなされていたこと、その「宝」のため(利)になる統治を天皇は行わなければならないとされていたこと、が分かります。
人間主義的統治の神髄が「おおみたから」という言葉に凝縮されている、と言ってよいのではないでしょうか。
(「現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされて」いません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
が、日本書紀の編纂当時の天皇等の統治者達にとっての天皇の理想像が「初代」の神武天皇に投影されているはずです。)
なお、これまで、私は、聖徳太子の十七条憲法という言い方をしてきたところ、そうではなく、あくまでも推古天皇の十七条憲法であることを今後は肝に銘じたいと思います。(太田)
その冒頭に掲げた「和(やわらか)<(注9)>なるを以て貴とせよ」こそ、推古の非戦の思想に通底する一条であろう。」(12)
(注9)やわらか=やわら(和ら・柔ら)+か(如・然)=(陽陰が)合っているさま。中和しているさま。収まるさま。平らなさま。穏やかなさま。
http://gejirin.com/gsrc/ya/yawaraka.html
⇒そして、縄文モードの神髄が「和(やわらか)」という言葉に凝縮されている、と言ってよさそうです。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その3)
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