太田述正コラム#8380(2016.5.6)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その4)>(2016.9.6公開)
「推古は、推古15(607)年、十二階中第五位の大礼・小野妹子<(注10)>を<隋>に派遣した。
(注10)?~?年。「近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身。・・・<遣隋使として隋に渡った帰路に国書を紛失(後述)し、>一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90
⇒「推古天皇8年にあたる・・・600年<の>・・・派遣第一回<について、>・・・は、『日本書紀』に記載はない<が、>『隋書』「東夷傳<倭>國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
というのに、入江がこの最初の遣隋使の話を、何の説明もないまま無視しているのは不思議です。(太田)
『隋書』によれば、このとき妹子が持参した国書「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」の文言に<(故文帝の息子の)>煬帝は不快を隠さなかった、とある。
隋は翌16年帰国する妹子の送使として裴世清(はいせいせい)を付け、彼に託した国書でこの不快の理由を明らかにした。
「皇帝、倭皇(王)を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至(もう)でて懐(おもい)を具(つぶさ)にす」
冒頭、ヤマト朝廷が対等に称した「天子」の称号を皇帝とし、倭皇おそらくは王、と規定しなおし、宗主国と藩属国という彼我の関係を明らかにした。
そのうえで小野妹子<(蘇因高)>・・・に「長吏」の肩書を付けた・・・。
長吏とは隋が中央から郡県に派遣する役人に与える地位である。
つまり妹子を隋の地方官と位置づけてみせたことは、ヤマトを藩属国とみなしている、という通告にほかならない。・・・
このとき煬帝は裴世清に托したこの国書とは別に、・・・<妹子>にも国書を与えていた。
妹子は〈帰途、百済で奪われた〉と報告したが、それは口実だったのではないか。
その内容は<妹子>が報告する委細の内容はおそらく倭王に対する冊命書–たとえば百済の王に与えた「上開府・儀同三司・帯方郡公」に類する爵位であったことが推察される。
推古が妹子の失態として不問に付したのは賢明な措置であった。・・・
⇒入江は、ここは、現在の通説(上掲)に拠っています。(太田)
返書でも<東(やまと)の天皇、謹んで西(もろこし)の皇帝(きみ)に申上げる>ときっぱりと・・・隋からの一方的な宗属関係の決めつけに対<し、>・・・その関係を訂正し、小野妹子に冠せられた問題の「長吏」を削除したうえで、<妹子>を再び大使として、帰国する裴世清に同行させるという洗練された外交姿勢をみせた。
このとき留学生として隋に渡った6人の留学生–高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)<(注11)>、新漢人日文(いまのあやひとにちもん、<後の>僧旻(みん))<(注12)>、南淵請安(みなぶちのしょうあん)<(注13)>など選り抜きの俊才もまた、ヤマトの知的水準を辱しめるものではなかったはずである。」(13~15)
(注11)?~654年。「高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王とともに渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔・・・留学中の推古天皇26年(618年)に・・・隋が滅亡し唐が建国されている。・・・<後に、再訪していた>長安<で>・・・客死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%90%91%E7%8E%84%E7%90%86
(注12)?~653年。「中国系の渡来氏族・・・大化元年(645年)大化の改新ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ<ている。>・・・大化6年(650年)に白戸国司から白い雉が献上されると、その祥瑞を説明したことにより、白雉と改元された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%BB
(注13)?~?年。「漢系渡来氏族出身・・・大化の改新<後の>・・・新政府に加わっておらず、これ以前に死去したものと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B7%B5%E8%AB%8B%E5%AE%89
⇒入江が言及した3人は、私が高校時代に遣隋使メンバーとして教わった人々であり、全て漢人系ですが、遣隋使の日本語ウィキペディア(前掲)は、1回目の留学生達の筆頭に、朝鮮半島系の奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)(注14)を上げています。
(注14)?~?年。「「訳語(おさ)」とは通訳のことである。・・・
奈羅訳語氏(ならのおさし)は・・・秦氏の一族。己智(こち。己知、巨智、許知、許智)を祖とする・・・
己智は百済の出身で欽明天皇元年(540年)・・・に帰化。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E7%BE%85%E8%A8%B3%E8%AA%9E%E6%B0%8F
⇒当時は、私の言う拡大弥生時代であったわけですが、倭(日本)の支配層には自分達の祖先が大陸から渡来したという意識が明確に残っており、だからこそ、当時、大陸から渡来してそれほど時間が経っていなかった者達を躊躇なく重要な任務にあてたのでしょうね。(太田)
(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その4)
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