太田述正コラム#8386(2016.5.9)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その7)>(2016.9.9公開)
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[善徳女王 (テレビドラマ)]
「韓国にて2009年5月25日から12月22日まで韓国MBCで放送れさたテレビドラマ。・・・
韓国では、視聴率40%以上を記録し、当初50話の予定を12話延長して全62話の放送となり、2009年に放送された全韓国ドラマ平均視聴率NO.1作品となった。・・・
日本でもKNTVを始め、BSフジでは『善徳女王 -The Great Queen Seondeok-』(-ザ・グレート・クイーン・ソンドク-)として、2009年10月22日から2011年1月27日まで全62話で放送された。 なお、日本国内でのTV放送においては、ソンドクじょおうと読まれるのが一般的である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
「KNTV株式会社(ケイエヌティーディー)は、韓国の主要放送局(MBC、SBS)の番組を中心に放送している専門チャンネル「KNTV」を運営している日本の衛星一般放送事業者である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/KNTV
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「<新羅>朝廷で<は、>・・・太宗<の>策を挙げて唐から新王を迎える方向で善徳に退位を迫った。
これに敢然と抗したのが、・・・新興勢力であ<って、>・・・女王の廃位に反対する。
しかしこのとき、新羅にはさらに一つの難題、重大な外交問題が重なっていた。
646年の初冬、ヤマト朝廷から朝貢を求める使者が到着<し(後出)、>・・・宗属–つまりヤマトに対する新羅の在り方を問い、回答を求めていたのだ。
その問題を宙吊りにしたまま、647年正月、ついに善徳廃位を旗印にかかげて・・・<内>乱<が>起こった。・・・
この乱のさなか、・・・善徳は極秘裏に世を去った。」(35~37)
⇒ここから先、皇極・斉明天皇の話になるのですが、645年の乙巳の変の背景についても、そのこととも関係していますが、皇極・斉明の実子である中大兄皇子が、乙巳の変の首謀者であったとされているにもかかわらず、同変直後に即位した孝徳天皇の下で立太子されるにとどまり、また、母皇極・斉明が655年に重祚した際も、引き続き皇太子にとどまり、斉明が死去した661年においてさえ、称制<(注20)>しただけで即位を668年まで引き延ばした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
理由についても、自分の頭の中を十分整理できていないので、もう少し整理できるまで、このシリーズを中断します。(太田)
(注20)「称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。・・・日本においては、中大兄皇子(舒明天皇・斉明天皇の皇子で後の天智天皇)と鸕野讚良皇后(天智天皇の皇女・天武天皇の皇后で後の持統天皇)の2例を「称制」としているが、この他に神功皇后・飯豊皇女・阿閉皇女の計3例のケースも称制に相当すると言う考えがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%88%B6
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[間人皇女]
皇極・斉明天皇の時代(642~661年)のキーパーソンの一人とも言える間人皇女について、ここで若干の紹介をしておく。
はしひとのひめみこ(?~665年)。「<皇極、及び、皇極が重祚した斉明の間の>孝徳天皇の皇后。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が<日本史上初の>譲位<を行い>、<同母弟の>軽皇子(孝徳天皇)が即位する。葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。天皇はこれを恨み退位も考えたが、・・・病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。
金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか 繫於金木 吾飼駒當無出兮 吾之駒至今何以為所獲
皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く・・・見解もあ<る。>」(入江は、この見解に採用している。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
前掲(<>内)
ちなみに、「異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
但し、「八虐(はちぎゃく)は、日本の律令の律が初めに列挙する重大犯罪類型であ<って>・・・唐律の「十悪 (律令)」を元にしているが、ここから「不睦」「内乱」の2つが除かれている<ところ、>「不睦」は家庭不和、「内乱」は現在の内乱とは意味が異なり一族を乱す犯罪を指し、特に不倫、近親相姦がその要因とされ<てい>た<が、>除かれた理由について、唐律は儒教に依拠するもので日本での成立時には浸透していなかったこと(反駁もあり)、<日本の>史書などにすでに近親通婚の記録があるなど、禁忌意識が日本で薄かったこと<が>推測<され>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%99%90
すなわち、同母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻も、道徳的には許されなくても、法的には咎められることはなかった、というわけだ。
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(続く)
入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その7)
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