太田述正コラム#8388(2016.5.10)
<一財務官僚の先の大戦観(その21)>(2016.9.10公開)
「昭和12年7月の盧溝橋事件発生当時に政府(近衛内閣)がとっていたのは対英米協調路線であった。
それは、対英米貿易依存度が輸入で50~60パーセント、輸出で30~50パーセントだったこと、中でも米国のシェア(1920年代)は、輸出で38.8パーセント、輸入で31.4パーセントだったことからすれば、経済合理性に基づいた当然の路線であった。・・・
近衛内閣の英米協調路線の実行にあたったのが、昭和13年5月に蔵相兼商工相になった池田成彬(米沢藩出身)であった。・・・
池田は、(1)日本経済や財政を圧迫していた日中戦の早期収拾、(2)対ソ戦に備えた戦時体制の整備、(3)対英米協調路線の維持継続を打ち出した。
対英米協調路線の具体的な内容は、華北における軍部主導の円ブロック形成政策の放棄、スターリング・ブロック向けの輸出拡大による外貨獲得に加えて、米国資本の導入による満州地域の日米共同経営といったものであった。
当時、軍部の反対はあった・・・
⇒当時の日本で、「軍部の反対」がある対外政策が打ち出せたはずがありませんし、そもそも、松元が言及しているものは、池田蔵相兼商工相の政策ではなく、近衛内閣としての政策でしょう。
なお、既に指摘したように、「日中戦の早期収拾」は、「対ソ戦に備え」ていたところの肝心のソ連(赤露)及びその掌中にあった蒋介石政権にその気が全くなかった以上、およそ実現不可能であったわけです。(太田)
米国もこの池田の路線を基本的には受け入れるとの姿勢を見せたのであった(安達誠司『脱デフレの歴史分析』)。
対英米協調路線には、米国との貿易摩擦が生じた場合には日本側の自主規制で対処するとの方針も含まれていた。
当時の日本は、戦後の国際協調的な経済外交と同様の外交を展開していた(『アジア国際通商秩序と近代日本』)。
⇒この言い方にはひっかかります。
日本は、当時の非「国際協調的な経済外交・・・を展開していた」米英蘭等の被害者であった(後述)ところ、第二次世界大戦後、米英蘭等が心を入れ換えて「国際協調的な経済外交・・・を展開」するようになり、結果として、参戦目的の一つを達成できた、とでも松元は記すべきでした。(太田)
満州事変後の第一次日印会商<(注27)>や第一次日蘭会商<(注28)>においても、繊維製品や砂糖の貿易摩擦回避の外交が行われていた。(昭和9年)。」(89~91)
(注27)「日本では、1924年に豊田自動織機が世界初の自動織機である無停止杼換式豊田自動織機(G型)を完成させ、機織の生産性及び製品の品質が著しく向上し・・・一人が普通織機を八台もしくは自動織機を二十台~四十台も受け持っていた。しかし、<英国>は労働組合が強かったため、英国労働組合の規約には、労働者が二台以上の機械を使ってはならないと規定されていた。・・・
1929~1930年度の世界棉花の五割以上を<米国>が産出していた。アメリカ棉は割高ではあるが品質が良かったため、一番に<米国>、二番に<英国>で消費されてきた。しかし、外国棉の品質が上がり、不作でアメリカ棉の品質が落ちたため、また、日本が<英国>から中等品や下等品の大市場を奪っていたため、<英国>は割高なアメリカ棉の使用を減らし、代わりに割安なインド棉を使用するようになった。
1932年、インド棉が不作となりアメリカ棉と同等まで割高となったため、日本はアメリカ棉の下級品を代用した。同年、インドの紡績業界は損害を受け、日本綿布がダンピングされているとして、関税引上げを要求した。インド<(英国(太田))>は、ダンピング防止法を制定して日本へと適用するため、1933年4月に日印通商条約廃棄を日本に通告した。・・・
1933年7月~ – 日印会商(第1次会商)・・・1934年1月 – 第一次日印協定締結」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%B5%8C%E6%B8%88
(注28)第一次日蘭会商(1934~37)。「1930年代に日本から蘭印への輸出が急増した。その結果、1933年には蘭印から見て輸入が1億円超過となり、翌年には対日輸出が4%にもかかわらず輸入が1/3を越す事態となった。そのため、蘭印側では世界恐慌に伴う保護主義論の高まりと日本による過度な経済的浸透を危惧して1933年以後、ビール・セメントなどの非常時輸入制限令を発令した。・・・その後、1936年6月8日に日本とオランダの海運会社の間で積荷に関する合意(日蘭海運協定)が成立、1937年4月9日には石沢・ハルト協定(日蘭通商仮協定)の締結によって一応の妥結をみた。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD%E4%BC%9A%E5%95%86
⇒「世界恐慌ののち、工業諸国はブロック経済を形成して保護貿易の度合いを深める。きっかけとなったのは、<米国>が農業保護を目的に立案したスムート・ホーリー法だった。この法律は、当初は農作物の関税を上げることを目指していたが、世界恐慌の影響で工業界も加わる。当時の世界最大の貿易国だった<米国>が関税率を大幅に上げたことで、世界貿易は縮小した。大恐慌をきっかけに<英国>でも保護主義がすすみ、1932年のオタワ会議では、帝国特恵政策が定められた。世界貿易は、1930年代末には1920年代後半の50パーセント以下まで縮小した。ブロック経済は各国の経済的効率性を損なったことに加えて、政治的な対立の激化をまねき、第二次世界大戦の勃発の要因となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E8%B2%BF%E6%98%93
という時代背景の紹介、及び、日印会商、日蘭会商、についての具体的説明、を省いた結果、米国の保護主義、及び、それを受けた英国等の保護主義であるところの、「植民地を持つ国が、植民地を「ブロック」として、特恵関税を設定するための関税同盟を結び、第三国に対し高率関税や貿易協定などの関税障壁を張り巡らせて、或いは通商条約の破棄を行って、他のブロックへ需要が漏れ出さないようにすることで、経済保護した状態の経済体制<である>・・・ブロック経済」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%B5%8C%E6%B8%88 前掲
が、日本等の後発経済発展諸国の産品の流入を阻止し域内生産者達を保護を図るという、利己的かつ不当なものであった、という認識を読者に与えないことによって、当時の日本の、自主規制や低姿勢の交渉という貿易政策が、実は、憤激をこらえながら行われたものであった、という事実の説明を、松元は、恐らく、意図的にネグっています。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その21)
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