太田述正コラム#8394(2016.5.13)
<一財務官僚の先の大戦観(その24)>(2016.9.13公開)
 「ちなみに、当時の中国大陸の経済情勢は大きく変動していた。
 昭和9年<(1934年)>には60年来の旱魃に加えて米国の銀買い上げ政策による国際的な銀価格の高騰から銀本位制<(注35)>をとっていた中国経済は苦境に陥った。
 (注35)「歴史上代表的な銀本位制国家としては、清ならびに1935年までの中華民国がある。・・・明代に一条鞭法<(コラム#7670)>という租税銀納制度が洋銀(メキシコドル・墨銀)の流入により実施可能となっており、ここに銀本位制度の下地があった。・・・
 清では、少額の取引には制銭と称される官製の銅貨が流通したが、高額取引においては銀錠(馬蹄銀ともいう)とよばれる高品質の銀塊が秤量して用いられた。銀錠は政府が鋳造するのではなく銭荘という伝統的金融機関において自由鋳造にまかされており、貨幣と言うより銀のインゴットに近いものであった。清末期には洋銀や日本の1円銀貨とほぼ同じ銀含有量の銀元(単位・圓)も発行されるようになり、中華民国においては本位貨幣とされた。後に世界恐慌による金融市場の混乱による銀の流出を受けて1935年に銀本位制を放棄(廃両改元。管理通貨制度に基づく法幣導入)をした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6
 そのような中で、蒋介石政府は、昭和10年1月から汪兆銘<(コラム#219、234、922、1820、1859、3310、3774、3780、4010、4079、4376、4494、4711、4724、4740、4940、4946、4948、4950、4958、4968、4976、5052、5372、5412、5569、5594、5605、5868、6136、6244、6260、6272、6296、6344、6346、6348、6352、6354、6653、7177、7183、7691、7989、8102、8115、8350、8352)>による対日親善外交を試みた。<(注36)>・・・
 (注36)「行政院長<(首相)であった>汪兆銘<は、>・・・1933年・・・5月、・・・塘沽停戦協定の締結に関わった。実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。・・・
 1935年)11月1日、・・・汪兆銘は狙撃された。・・・この時体内から摘出できなかった弾が、後の骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
⇒汪兆銘(Wang Jingwei)自身は、裏表なく対日友好外交を展開した、と考えてよさそうです。
 そのあたりの事情は、遺憾なことに、彼の英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Wang_Jingwei
が詳しく説明しています。
 先の大戦中の日本への主要協力者中、チャンドラ・ボースは、独立後のインド国内での盛名もあり、日本人の間でも敬意を表されているけれど、汪兆銘は、中共・台湾を含む漢人世界で依然として漢奸視されているだけに、せめて日本人の間だけでも、ボース以上の敬意を表されてしかるべきでしょう。
 そのためにも、戦前・戦中史に係る日本語ウィキペディア執筆陣は、もっと詳細な汪兆銘記述をして欲しいと思います。
 彼らの奮起を促す次第です。(太田)
 この時の対日親善外交のきっかけとなったのが、蒋介石が<匿名で>・・・昭和9年12月に出版した『敵乎? 友好? –中日関係の検討』であった。
 中国国内でも、中日親善ブームが一気に高まり、昭和10年上半期だけで留日学生の数は4000人にのぼり、近代以降最多となった。
 他方で蒋介石は、四川を国家建設の中心に位置付けるなど抗日戦争への準備も怠りなかった。(『蒋介石の外交戦略と日中戦争』72、91~92)・・・
⇒蒋介石がいかに謀略を弄する人物だったか・・共産主義者もファシストも謀略を旨としていたところ、容共ファシストたる蒋介石については、「蒋介石が」ではなく「蒋介石も」と言うべきかもしれませんが・・がよく分かる、というものです。
 そして、当時の支那の比較的恵まれた若者達が、いかに権力者達の扇動に踊らされ易かったかも・・。
 なお、松元は、この箇所のように典拠の頁まで明記するのは珍しいのであって、典拠だけというのが通例で、典拠をつけないケースも少なくないのであり、東大法学部ではもとより、スタンフォードビジネススクールでも基本的に、論文作成が求められないので、ついに彼は、論文執筆の際の基本的作法を身に付けることができないままでいる、ということなのでしょうね。(太田)
 しかしながら、昭和10年末になると英国のリース・ロス<(Sir Frederick Leith-Ross)。(コラム#4685、4687、4693、4699、5034、5042)>英国元大蔵大臣の支援も受けた幣制改革が成功して経済は安定化に向かい、軍事的にも昭和10年8月には蒋介石軍が広東、広西を掌握して残るは華北の日本軍と共産党の問題だけになる(『上海時代』)。
⇒松元は『上海時代』の記述を鵜呑みにしたと言うことなのかもしれませんが、リース・ロス(Frederick Leith-Ross。1887~1968年。オックスフォード大卒、大蔵省入省)は、1932~45年の間、英国政府の首席経済顧問(chief economic advisor)でこそあれ、英国の蔵相であったことはありません。
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Leith-Ross (太田)
 その日本軍も、昭和11年11月には、綏遠事件が失敗に終わって勢いをくじかれることになるのである。」(93~94、113)
(続く)