太田述正コラム#8396(2016.5.14)
<一財務官僚の先の大戦観(その25)>(2016.9.14公開)
「同路線は、<1936年>6月に林内閣が崩壊すると後継の第一次近衛内閣には引き継がれず、華北分離工作は華北開発という政府直轄の形で強行されるようになったのである。
<この>華北開発は、関東軍と満鉄によった満州の場合とは異なって、軍を排除し、内閣の下に設置された興亜院<(注37)>と北支那開発株式会社<(注38)>、中支那振興株式会社<(注39)>の手で行われた。・・・
(注37)「昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関・・・。日<支>戦争によって<支那>大陸での戦線が拡大し<て事実上の(太田)>占領地域が増えたため、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するために第1次近衛内閣で設けられた。
長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された(副総裁は陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣・大蔵大臣の兼任であった)。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・廈門に「連絡部」が設けられた。・・・占領地では軍政を行うため興亜院の幹部も<連絡部も>主に陸海軍の将校で占められた。興亜院の設置は外務省の対中外交に関する権限の縮小につながり、宇垣一成外相の辞任の一因となった。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2
(注38)「華北の経済開発を目的とする国策会社は、既に南満州鉄道(満鉄)子会社の興中公司・・・があったが、華北の膨大な資源開発には同社のみで対応することは困難であった。また、興中公司を使って華北の資源を独占しようとする満鉄への内地財閥企業の反発もあり、陸軍省軍務課が音頭を取るかたちで新会社の設立が準備された。
1938年4月・・・帝国議会において「北支那開発株式会社法」が可決され、同年11月の総会をもって会社は<発足>。・・・設立当初の資本金は3億5000万円であり、半分の1億7500万円を国が出資し、残り半分を満鉄、貝島炭鉱、三井財閥、三菱財閥などが出資している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%94%AF%E9%82%A3%E9%96%8B%E7%99%BA
(注39)「日本政府が半額を出資し残りは民間企業から資金を募る<という北支那開発株式会社と同じ(太田)>形で、華中地域の・・・開発に当たる国策会社<で、>・・・1938年8月・・・発足」
https://books.google.co.jp/books?id=6PQIH57HvfYC&pg=PA157&lpg=PA157&dq=%E4%B8%AD%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%8C%AF%E8%88%88%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE&source=bl&ots=9pbVkOnhfq&sig=zcY9pCmjHW5-36Xe_YLIU91Ztpo&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwio2YXXndnMAhWBUZQKHU0_D1A4ChDoAQglMAM#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%8C%AF%E8%88%88%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE&f=false
こちらの方が発足が早く、しかも、こちらが原型になったと思われるのに、松元が、北支那開発株式会社、中支那振興株式会社、の順序で記述したこと、前者の日本語ウィキペディアが存在しないこと、の理由は不明。
⇒松元は、このくだりの典拠として、「<加藤陽子>『昭和天皇と戦争の世紀」304頁」を挙げています(113)が、興亜院の主要ポストは、出先も含めて全て陸海軍の将官・佐官で占められており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2 前掲
「軍を排除し」た、という記述は意味不明です。(太田)
<また、「・・・>満州においては、重化学工業化を推進し、それによる経済発展をはかろうとする姿勢が一貫していたのに、華北においては、太平洋戦争の戦局が悪化した1943年に至って海上輸送力が窮迫する時期に至るまでは、常に「日満」に対する原料供給が第一の政策目標にかかげられていた。・・・」(<中村隆英>『戦時日本の華北経済支配』)
⇒1940年3月30日には汪兆銘政権が成立している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98%E6%94%BF%E6%A8%A9
のですから、形式的に言えば、それ以降の華北や華南の開発は同政権の仕事ですし、それまでの間も、(1941年12月に日本が対英米開戦し、蒋介石政権が対日参戦するまでは、)支那との関係では日本は法的には戦争状態になかったことから、正式の軍政を敷くこともできず、いわんや、開発行政などできなかった、主としてできることと言えば、対価を支払って原料等の財・サービスを(場合によっては事実上強制的に)買い上げることであった、と言うべきでしょう。
中村の指摘は、ないものねだりに近い、という感があります。(太田)
<1937年>当時の満州<は、発展していたが、>・・・それは国際的に孤立しつつあった日本が、なけなしの資本を満州につぎ込んだ結果として達成されていたもので、満州に資本をつぎ込めばつぎ込むだけ日本国内の活力を弱め、国民生活を窮乏化させるという犠牲の上に成り立っていたものであった。
満州での発展と引き換えに、日本は「持たざる国」への道を突き進んでいたのである。」(94~97)
⇒ここには典拠が付されていないのですが、松元の精神状態を疑いたくなってしまいます。
というのも、「日<支>戦争の前後から、第二次世界大戦後期において<米>軍による日本本土への空襲が激しくなり工業生産に影響が出てくる1944年前後までの期間<の>・・・経済成長率・・・は高度成長期に匹敵する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7
からです。
具体的な成長率・・当然、本土のみの分です・・の推移表
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4430.html
を見ると、世界5大国と言われ、経済力においても既に世界第6位に達していたところの、事実上の昭和初年である1927年から日支戦争勃発直後の38年にかけての、日本の高度成長ぶりの方に、むしろ、瞠目すべきものがありますが・・。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その25)
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