太田述正コラム#8398(2016.5.15)
<一財務官僚の先の大戦観(その26)>(2016.9.15公開)
「『宇垣一成日記』は「藤氏の話しでも満州は日本国幣の浪費の場所となり居るの感あり。夫(そ)れに又同意義の北支を加へたならば果して日本が健全なる発展を遂げ得るか?? 憂国の士は真面目に考慮すべき時は正に到来して居る!」(昭和12年(1937年)8月23日)、「内地のセメント工場や紡績工場は現に何れも数割の操短を実行して居にも拘はらず満州にセメント工場を新たに建設したり青島の破壊されたる紡績工場を復活せしめつつある政策は、日本を枯渇せしめ窮乏に陥れて満州や支那を王道楽土化せんとするものではないか?」(昭和13年(1938年)11月15日)と記していた。
⇒宇垣は、陸軍時代に1927年から1929年まで朝鮮総督(臨時代理)を務め、予備役に編入された1931年から1936年まで再び朝鮮総督を務めていますが、経済に通じていたとは考えにくく、何故に、松元が、わざわざ宇垣の日記からこのような部分を引用したのか理解に苦しみます。
確かに、1938年には前年の23.7%の超高度成長が3.4%へと急減速し、翌1939年には0.8%へとゼロ成長に近づき、1940年には、昭和の戦間期唯一の△6.0%というマイナス、しかも大マイナス成長へと落ち込む
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4430.html 前掲
のですから、その予兆が1937、38年にも感じられていた、という可能性は否定できませんが、とにもかくにも、当時は、プラス成長だったのですからね。(太田)
資本に加えて、中国大陸における戦争の長期化は大量の若者を兵隊として国内から大陸に送り込むこととなった。
高橋是清蔵相の軍備抑制路線の下に昭和7年<(1932年)>に33万人だった日本軍の将兵数は、盧溝橋事件が起こった昭和12年<(1937年)>には108万人に、日本開戦の昭和16年には242万人に膨れ上がった。
それだけの若い労働力が国内から失われれば生産が落ち込むことは当然である。
⇒私が上述したように、1940年には日本はマイナス成長に陥ったわけですが、翌1941年・・12月に太平洋戦争が始まる・・にはプラス成長(1.6%)に戻っていますから、要は、総動員体制の発動により、移行期における諸調整に伴う一時的な景気後退が起こったという程度の話だったのではないでしょうか。(太田)
ちなみに、日本軍の将兵数は、日露戦争時に一時103万5000人(明治38年)に膨れ上ったが、日露戦争後には平時の30万人程度に戻って現在の自衛隊とそれほど異ならない水準になっていたのである。
ここで、昭和12年に近衛内閣が策定した「産業開発五カ年計画」について触れておくこととしたい。
それは、当時のソ連の五カ年計画に倣って日満一体の総合計画の下に満州国を国家社会主義的な経済体制の国にしようとするものであった。
⇒松元は、ここで、「国家社会主義」などという、多義的な言葉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
を使うべきではありませんでした。
どうしても使いたいのであれば、「赤松克麿の」、或いは、「北一輝についての他称の」(上掲)、といった具合に、せめて、意味を明確にした上で使うべきでした。(太田)
それは、国家社会主義の満州国を介して日中が経済ブロックを形成し、それを梃子に国内の資本主義体制を変革するとの関東軍の方針に沿ったものであった。
⇒国家社会主義ならぬ、(私の言葉で言うところの)日本型政治経済体制は、日本→満州国→日本、という順序で次第に形成されていったのであり、また、その形成は、非軍事官僚と軍事官僚とが協力して推進されたのであって、この松元の主張は誤りです。(拙著『防衛庁再生宣言』参照)(太田)
その背景には、昭和初期、無限の反映を続けると考えられていた米国のイメージが大恐慌で崩壊した後に、知的権威を確立したのがマルクス主義だったとの状況があった(『清沢洌』)。
⇒契機となったのは、そんな観念的なものではなく、現実問題として、日本が継受したアングロサクソン的政治経済体制が機能していない、という、官民の間に広範に共有された認識だったのです。(過去コラムでも何度か指摘しているが、コラム#省略)(太田)
当時の関東軍の方針について、戦争末期に日本の敗戦がいよいよ明らかとなってきた時点で近衛文麿は、「是等軍部内一味ノ者ノ革新論ノ狙イハ必ズシモ共産革命に非ズトスルモ、コレヲ取巻ク一部官僚及民間有志(中略)ハ意識的ニ共産革命ニマテ引キスラントスル意図ヲ包蔵シ居リ」(昭和20年2月、近衛上奏文)と述べることになるのである。・・・
⇒これは、近衛の妄想以外の何物でもありませんでした。
なお、赤露のそれと区別されるところの、本来の共産主義とは、客観的には、日本文明の継受を目指す営みである、という私の最近の指摘にまでここで話を広げるとややこしいことになるので止めておきます。(太田)
満州に国家社会主義に基づく国家を建設することによって「世界最終戦争」に備えるとしていたのが、満州事変を起こした石原莞爾であった。
その考え方の原型は英国のインド政策だったように思われる。
ジャン・モリスによれば「ある意味で最大の社会主義国は英領インドだった。インドでは政府が学校や大学を運営し、医療を管理し、鉄道の大半と、塩と阿片の製造工場と膨大な森林資源のすべてを経営し、土地の大半を理論上所有していた」(『パックス・ブリタニカ』)。
⇒そんなことを言い出したら、英領インドは、むしろ、明治維新以降の戦前日本そっくりであることから、英国のインド政策は、明治・大正期の日本が原型でした、ということになりかねません。
(そうだとすれば面白いですがね。)
思い付きでものを言う松元にも困ったものです。
(但し、英国の労働党の戦後の政策が、英領インドにおける政策の逆輸入であった可能性はありそうですね。)(太田)
なお、当時の革新官僚たちは、満州の開発によって東アジアでの分業体制を確立して成長につなげると考えており、本国の犠牲において満州の開発に資源を注ぎ込むとの感覚は持っていなかったものと思われる。」(97~98、114)
⇒そんなもの、当たり前の話です。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その26)
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