太田述正コラム#8400(2016.5.16)
<一財務官僚の先の大戦観(その27)>(2016.9.16公開)
「日本の「持たざる国」への道は、満州に資源を注ぎ込んだことだけによるものではなかった。
華北における軍主導の円ブロック化政策(経済戦)による人為的な金流出によってももたらされたものであった。
当時、中国ではリース・ロスによる幣制改革が成功し、法幣が統一通貨として流通するようになっていた。
それに対して、華北に侵攻した日本軍は、華北で無理に円ブロックの経済圏を形成しようとした。
そのために、昭和13年<(1938年)>3月に北支那方面軍特務部主導で、華北に新たな発券銀行として中国聯合準備銀行<(注40)>を設立し、その発行する聯合銀行券と法幣、日本円との間を固定レートとする「円元パー」政策<(注41)>を採用した。・・・
(注40)「1938年3月1日に・・・王克敏を首班とする・・・中華民国臨時政府の発券銀行として北京に設立された銀行である。・・・
同じように日本側の傀儡政権による発券銀行としては、中華民国維新政府下の華興商業銀行、その後継の汪兆銘政権下の中央儲備銀行があり、蒙古聯合自治政府下の蒙疆銀行などが創立された。・・・
なお、中華民国臨時政府は1940年に汪兆銘政権に合流したため解散し、華北政務委員会に改組したが、両者の発券銀行は統合することなく1945年に瓦解するまで存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%81%AF%E5%90%88%E6%BA%96%E5%82%99%E9%8A%80%E8%A1%8C
(注41)「なぜ日本政府は、聯銀券を日本円と等価と定めたのか.その第1の理由は日本・満洲国・華北間の物資の交流を円滑に行うためである.日本・満洲国・華北の間に為替相場を存在させず,取引の基準である相互の通貨の価値を等価にすれば,3国間の貿易は国内の取引と同じように円滑にできる.
第2の理由は,日本及び満洲国から華北への投資を容易にするためである.華北にある豊富な資源を開発するためには資本が必要だ.事変下においては,この資本は日本からの投資による外はない.したがって華北に対する投資を円滑に促進するには等価関係を維持しなければならない.
<第3の理由は、>日本円と等価にした聯銀券で<蒋介石政権の>法幣を回収すると決定した<からだ。そうである>以上,日本円が法幣より安値という事態は許されない.少なくとも日本円と法幣はパーか,日本円を高値にしないと,誰も法幣と聯銀券を交換しないだろう.・・・
<ところが、>日本は事変以来,武力戦では勝つが,通貨戦では負けて武力戦の戦果を帳消しにするので,事変の結着をつけることができないというジレンマに陥った.
1939年初頭に,蒋介石は「果たして日本は中国の法幣制度を破壊しうるか」と題して次のように述べた.
「もし今次の抗戦が1935年(幣制改革の年)以前に発生したならば,中国はもっと早く敗亡し,あるいはすでに辱を忍んで和を求めていたかもしれない……現在は幸にして法幣制度が存在し,……これによって良好な金融及び経済的秩序を維持し,長期抗戦の基礎を定めることができる・・・」」
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0220290/js/another03.html
⇒松元は、リース・ロスによる幣制改革が、いかなる日英関係の文脈の中で行われたかに全く触れていません。
詳細は、以前のコラム(#4685、4687)に譲りますが、日本を敵視するという当時の英国政府内のコンセンサスの枠内で、日本との宥和を追求したところの、英大蔵省の意向を受けたリース・ロスの対日「宥和」パッケージ・・蒋介石政権による満州国承認を含む・・を日本政府が拒否した段階で、英国政府は、このパッケージのうちの一項目であった、幣制改革を断念すべきだったのに、しなかったことで、日本に敵対することを公に宣明した、と言うべきでしょう。(太田)
「円元パー」政策は、元々は高橋是清蔵相の時代(昭和10年11月)に、満州銀行券(元)と日本円と朝鮮銀行券の通貨ブロック化を目指す、朝鮮銀行と満州中央銀行の業務提携による経済合理性に基づいた政策であった。・・・
ところが、円と法幣との交換レートが、実勢を無視する円高だったために、日本から大量の正貨(外貨)の流出を招くことになったのである(『脱デフレの歴史分析』)。
「1938年3月に国民党政府が外貨割当制を実施すると、法幣の対外相場が下落する一方、華北では、前述の中国聯合銀行が発足し、聯合銀行券と法幣、日本円の間で『円高パー』政策が採用されたため、これを利用して『鞘取り』がますます激しさを増した。(中略)
これは、幕末から明治初期の由利財政<(注42)>期にかけての金銀比価の違いを利用した鞘取り<(注43)>と全く同じメカニズムで発生した現象であった。
(注42)「由利公正は,慶応4年1月から明治2年2月まで,徴士参与,金穀出納所取締として,太政官札(金札)発行とそれに伴う提案を行い,実行した人物として知られる。この間の金札発行とそれに伴う諸政策を打ち立てた取り組みを由利財政という。」
https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/index.php 中の KJ00004559521.pdf
具体的には、「「会計御基立金-内国債で賄う応急措置をとり,同時に太政官札-政府紙幣を通じてする殖産振興-輸出-正貨獲得という恒久的政策を用意していた」ものであり・・・新政府財政の危機を支え,ともかく軌道にのせて新政の実をまっとうさせた・・・と評価されている」
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/35831/1/SocioScience_013_00_015_Hoshihara.pdf
(注43)「鞘を利用してもうけるために行う取引。鞘取引。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9E%98%E5%8F%96%E3%82%8A-512133
鞘とは、「値段や利率の差・開き。売り値と買い値との差や、ある銘柄の相場間の値段の開きなどをいう。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9E%98-69853#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
⇒由利財政時代の鞘取りの具体的説明を省いて、単に言及する、というのは衒学的で不親切極まりない話です。(太田)
当時、日本は、華北において日本円で聯合銀行券、軍票等を増発する一方で、そういった通貨の増発がインフレーションを招かないよう貨幣発行量に見合った物資を日本から輸出していた。
その結果、日本国内から円ブロック圏への貿易収支は計算上、大幅な黒字を計上していたが、いくら黒字になってもそれによって日本に還流してくるのは増発された日本円や聯合銀行券ばかりで「正貨」ではなかった。
しかも、その日本円や聯合銀行券の多くは「鞘取り」で大幅に割安な相場で法幣から好感されたものであった。
100円を元手に五回の鞘取りによって2048円73銭を取得できたとされており、その差額だけの「正貨(外貨)」が日本から華北に流出した。
⇒正貨とは、「中央銀行が発行銀行券の兌換保証のため保有する金貨,金地金をい<う>」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E8%B2%A8-85532
のですが、日本では、1931年の犬養内閣の時に、金輸出を再禁止している・・金本位制を停止している・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6
ので、松元が何を言っているのか理解不能です。
(松元は、少し前に、「金流出」という言葉も用いており、更に不可解さが増します。)
括弧書きで「外貨」と言っているところから、日本円を売ってスターリングや米ドルに換えたものが華北に流入した、ということなのでしょうが、松元は、そのように、分かり易く書くべきでした。(太田)
それは、結果として鞘取りをされた分だけ華北地域で外貨準備を管理していた蒋介石政権に外貨(正貨)を節約させ、正貨決済が必要な米国等からの軍事物資調達を助けることとなった。
そして、その反面として、我が国の軍事物資調達能力を誓約することになったのである。
その状況について石原莞爾は「遺憾ながら経済戦は全く立ち遅れているらしい。原因については、通貨の問題が非常に大きな作用をしている」と述べていた。(『世界最終戦論』)。
それは、日露戦争の勝因に高橋是清による海外市場での戦費調達があったことに思いを致せば、敵方である蒋介石政権の戦費調達を助けて、蒋介石に勝因を作ってやったようなものであり「全く立ち遅れている」どころか経済戦の敗北というべきものであった。
そのような経済戦の敗北によって日本経済はいよいよ行き詰まり、国民生活は急速に窮乏化していった。
しかしながら、軍部による満州事変が景気回復をもたらしたと思い込んでいた国民は、生活が苦しくなったのは、「持てる国」である英国のスターリング・ブロックや米国のスムート・ホーリー法による関税障壁が「持たざる国」である日本を締め出しているせいだと思い込み、対英米感情を悪化させていった。
そのように思いこんだのは国民だけではなかった。
昭和13年9月に軍令部がまとめた極秘文書「対英感情は何故に悪化したか」は、英国が「英国の繁栄のために、極東における日本の生存権を犠牲にして顧みず、支那の排日反日政府を助長育成したる結果が今日の日支紛争」だとしていたが、それは、経済原理を理解しない軍部が自らもそのように思い込んでいたのを反映した文章であった。」(98~101、114)
⇒本件に関して、松元がこれまで引用している「一次史料」は、経済専門家によるものは一つもなく、その中で蒋介石のように、経済問題の専門家から日常的にインプットを受けられる人間はまだしも、それらを引用することに何の説得力もありません。
致命的なのは、1940年の「不況」が、「円元パー」政策を主要原因とすることを、彼が、具体的かつ理論的に説明していないことです。
たびたび参照してきた下掲
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4430.html 前掲
を一瞥すれば分かるように、戦後と違って、戦前の日本においては、マイナス成長を含む極めて激しい成長率の乱高下が常態であったことから、国民からすれば、1940年の「不況」もそのようなものとして受け止められた可能性が大であるだけでなく、前にも述べたように、翌1941年には景気が急回復してプラス成長に転じていることは、「円元パー」政策が、少なくとも構造的な景気押し下げ要因ではなかったことを示唆しているのではないでしょうか。
このように見てくれば、最後のくだりで、松元は、海軍の「分析」を曲解していることがお分かりいただけることと思います。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その27)
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