太田述正コラム#0400(2004.7.4)
<スターリンとヒットラー>
20世紀の歴史は、欧州の生み出した民主主義独裁の、それぞれ最新のバージョンであった共産主義とファシズムとアングロサクソンの自由・民主主義との戦いが最大のテーマであったと言えるでしょう。
共産主義は欧州の生み出したカトリシズムの突然変異であり、ファシズムは同じく欧州が生み出したナショナリズムの突然変異です。
アングロサクソンは、まず第二次世界大戦で共産主義を代表するスターリン独裁下のソ連と組んでファシズムを代表するヒットラー独裁下のナチスドイツをたたきつぶし、次いで冷戦でポスト・スターリン期のソ連をたたきつぶしました。
しかし、第二次世界大戦を振り返ってみれば、最大の決戦はスターリンのソ連とヒットラーのナチスドイツとの間で戦われたと言っていいでしょう。
ソ連軍とナチスドイツ軍合わせて、実に1,200万人から1,600万人もの兵士が亡くなり、一般市民の死亡者を含めれば、2,500万人から3,000万人もの人命が失われたのに対し、第二次世界大戦でのアングロサクソン(米、英、豪)の兵士の死亡数は合計で60万人に過ぎないからです。
オックスフォード大学の歴史学教授のリチャード・オバリー(Richard Overy)が先般上梓したばかりの著書The Dictators: Hitler’s Germany, Stalin’s Russia, Penguin (この著書に係る、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1253356,00.html、http://www.sbpost.ie/web/DocumentView/did-928810381-pageUrl–2FThe-Newspaper-2FSundays-Paper-2FAgenda-2FBooks.asp、http://theage.com.au/articles/2004/06/23/1087845001781.html?from=storyrhs&oneclick=true(いずれも7月4日アクセス))にほんの少し私見を加味しつつ、この決戦、すなわち独ソ戦、を振り返ってみましょう。
まず両者の比較から始めましょう。
両者は大変よく似ています。
ソ連の体制もナチスドイツの体制も、それぞれの国の過半の国民(少数の反体制派と熱烈な体制派、以外の人々)によって暗黙の支持を与えられていました。これらの人々は国家の恐怖による支配にやむをえず服していた、というわけではないのです。両体制とも、あくまでも「民主主義」「独裁」の最新のバージョンであるゆえんがここにあります。
そしてどちらの体制も、第一次世界大戦勃発後に国際社会から疎外され、危機意識に苛まれた国民を、(法や道徳を超越した)歴史の発展法則の手に国家をゆだねるべく革命に奉仕せよ、という大義を掲げて支配しました。
スターリンもヒットラーも権力のための権力を追求したわけではなく、自己顕示欲のために権力を追求したわけでもありません。このような大義のために一身を捧げた革命家だったのです。
両体制の経済システムも、タテマエほどの違いはなく、戦争の進展につれて一層収斂して行きました。ソ連の計画経済システムでは広汎に私的部門が認められるに至りましたし、ナチスドイツの資本主義経済システムは国家統制と国営企業優位のシステムへと変貌を遂げたのです(注1)。
(注1)興味深いことに、第二次世界大戦中に、ソ連からは体制が資本主義的な階級支配と搾取の体制に堕してしまった、ナチスドイツからは体制が共産主義的になってしまった、としてそれぞれ亡命者が出ている。
しかし、両体制の大義の違いは無視できません。
ご承知のように、ソ連は共産主義(マルクス・レーニン主義)という平等と繁栄のユートピアを目指す普遍主義的大義を掲げていたのに対し、ナチスドイツはドイツ人優位の未来の構築を目指す人種主義的大義を掲げていました。
この違いが、例えば、末期(ナチスドイツの場合は第二次世界大戦末期、ソ連の場合はスターリンの晩年)において、ナチスドイツでは無法が横行したのに対し、ソ連では法治主義の外観は維持される、という違いをもたらしました。
より一般的に言えば、このような大義の違いが、(どちらも独裁制ではあったけれどもその)末期において、ナチスドイツは硬直的で資源の動員を円滑に行えなくなったのに対し、ソ連は機能的かつ柔軟(controllable and versatile)であり続けた(注2)、という違いをもたらしたのです。
(注2)ソ連は、その体制の中からゴルバチョフを生み出し、ゴルバチョフの手で体制の存続に自ら平和裏に終止符をうった。まさにソ連の体制は、このように最後まで機能的かつ柔軟であり続け、有終の美を飾ったことを我々は知っている。これに対し、ナチスドイツの他律的かつ悲惨な最後が思い起こされる。
例えば、両体制とも強制収容所を伴う体制でしたが、ソ連の方が収容人員はナチスドイツより多かったものの、収容者死亡率は、ソ連が14%であったのに対し、ナチスドイツは40%にのぼっています(注3)。これは、ソ連では収容者はひどい扱いを受けましたが、ユートピアの実現に資する生産活動に従事させることがねらいだったので、生命や健康の維持への最低限の配慮はなされたのに対し、ナチスドイツでは収容者はしばしば計画的殺戮の対象となったからです。
独ソ戦の帰趨を決したのも、両者のこの違いでした。
(注3)しかし、ソ連の方がナチスドイツよりもはるかに長期間にわたって存続したため、ソ連の強制収容所における死亡者数はナチスドイツのそれを結果的に大幅に上回ることになった(コラム#144)。
ナチスドイツが1941年にソ連の西部を占領した時点で、ナチスドイツは、ソ連より保有人的資源と天然資源の両面において優位に立つに至りました。ナチスドイツの勝利は目前だと誰もが思いました。
にもかかわらず、最終的に勝利をおさめたのはスターリンの方でした。その理由は、アングロサクソンから戦略物資の支援を受けていたことはさておき、三つあります。
第一に、赤軍がナチスドイツ軍(Wehrmacht)より戦略、戦術面で上回っていたこと。
第二に、経済の統制面でもソ連の方がナチスドイツより効果的であったこと。
第三に、戦争が進展するにつれてスターリンは次第に軍人の判断を尊重するようになったのに対し、ヒットラーは自分が軍事の天才だと思い込んだまま、戦争末期には殆どあらゆる軍事的意志決定に介入するようになったこと。
<読者>
「民主主義独裁」というのは、よく使われる用語なのでしょうか?民主集中制とか民主◆年同盟とか 民主音◆協会とか朝鮮民主主義人民共和国とかまったく「民主」じゃないくせに「民主」という名称をつけたがる人々がいますが、どうも違和感があってダメですね。
共産主義者の独裁は「人民民主主義独裁」で善で、右翼の独裁は「ファシズム独裁」で悪だというという用法もあるようです。別に民主主義と何の関係もないのだから「独裁」は「独裁」でいいのではないのでしょうか?
> 共産主義は欧州の生み出したカトリシズムの突然変異であり、ファシズムは同じく欧州が生み出したナショナリズムの突然変異です。
共産主義は、ロシアで実験されたためにロシア正教(ギリシャ正教)の皇帝教皇主義のような一元的価値観によってグロテスクに発展したように思います。
一方、西欧大陸的価値観からするとカトリシズムは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」の二元主義的な価値観で、共産主義とは根源的に対立するという考え方だったと思います。
その論でいくと、英国国教会のように国王が首長になるのは一元的価値観で「野蛮」なんでしょうねぇ。^^;
また、マルクスが元ユダヤ教徒の唯物論者だったので、共産主義とユダヤ教の類似性を論じる人もいますね。ユダヤ教の預言者が神の言葉を預かって、神と人間との契約が更改されて社会法則が変化していくというモデルを借用して、共産主義の指導者によって資本主義→社会主義→共産主義と社会法則が変化していくモデルを考えたとも推理できるようです。
ともあれ、共産主義とカトリシズムとの直接の関係は薄いと思われますがどうでしょうか?
<太田>
簡単にお答えすることをお許しください。
民主主義独裁は、フランス革命後のジャコバン党指導者による独裁を嚆矢とする政治形態を指す言葉として使っています。それは、少なくとも男子に広汎な選挙権が与えられているか、かつて与えられており、独裁者がその正当性を(いかに形式的な選挙であるにせよ、しかも選挙が廃止されているとしても、かつて実施された)選挙によって付与されている政治形態です。
普遍主義的な前衛組織(教会・党)が、精緻な教義(カテキズム・ドクトリン)を掲げ、理想の未来(神の王国・共産主義社会)の実現に向けて個別国家及びその国家の国民のコントロールを図る、という点で共産主義はカトリシズムと双子のようによく似ています。このほか、異端審問があり、異端者にはしばしば死刑が科されたこと、平和を標榜しながら、組織の「敵」に対して往々にして戦争を惹き起こしたこと等、似ている点は枚挙のいとまがないほどです。
<読者>
> 簡単にお答えすることをお許しください。
お忙しいところすいません。
> 民主主義独裁は、フランス革命後のジャコバン党指導者による独裁を嚆矢とする政治形態を指す言葉として使っています。それは、少なくとも男子に広汎な選挙権が与えられているか、かつて与えられており、独裁者がその正当性を(いかに形式的な選挙であるにせよ、しかも選挙が廃止されているとしても、かつて実施された)選挙によって付与されている政治形態です。
#66のコラムで、ルソーの「一般意思」から解説されてましたね。いまだにルソーが何をいいたいのかわからないですが、欧州大陸や世界の悲劇の淵源として興味深いテーマですね。学術的には了解しました。
ただ、いまだに「人民民主主義独裁」という用語で自己の独裁権力の正統性を主張できると信じる人々がいるし、騙される人も多いでしょうから、政治的には保留しておきます。
> 普遍主義的な前衛組織(教会・党)が、精緻な教義(カテキズム・ドクトリン)を掲げ、理想の未来(神の王国・共産主義社会)の実現に向けて個別国家及びその国家の国民のコントロールを図る、という点で共産主義はカトリシズムと双子のようによく似ています。このほか、異端審問があり、異端者にはしばしば死刑が科されたこと、平和を標榜しながら、組織の「敵」に対して往々にして戦争を惹き起こしたこと等、似ている点は枚挙のいとまがないほどです。
なるほど、査問と異端審問の非人間性に着眼すれば、似てますねぇ。
教皇権絶頂時代と十字軍時代はピッタリですね。納得しました。