太田述正コラム#8402(2016.5.17)
<一財務官僚の先の大戦観(その28)>(2016.9.17公開)
 「経済原理を理解していた者にとって、「円元パー」政策の誤りは明らかであった。
⇒この政策を実施する前に、日本政府部内でそう指摘した者の名前を松元は一人も挙げていないのに、そう言われても、全く説得力がありません。(太田)
 昭和13年<(1938年)>5月に第一次近衛内閣の蔵相になった池田成彬は、それまでの政策を一転して、満州、朝鮮、華北といった円ブロック向けの輸出を制限して円ブロック内でのインフレーションを放置するとともに、「円元パー」政策を放棄し、英国との協調によって法幣をベースとした新たな通貨制度を創設する構想を打ち出した。
 それは、華北における経済戦の敗北に終止符を打とうとするものであった。
 そのような池田構想は、米国との関係で英国のブロック経済を打破して英米との戦争を回避する最後のチャンスだったともされている。
 すなわち、米国は昭和13年11月に英国との間で英米互恵通商協定を締結することになるが、池田構想が実現していれば米国の自由貿易の原則によって英国の特恵関税ブロックを解体させるチャンスだったというわけである。(<井上寿一(コラム#4193、7711、7719、7825、8358)>『アジア主義を問いなおす』)。
⇒ここで、松元は、突然、(概ね無意味なものばかりではあったものの、)一次史料に拠るのを止めて二次史料に拠り始めたわけですが、今度は、というか、今度も、どうして「円元パー」政策の放棄が「英国の特恵関税ブロックを解体させる」可能性があったのか、具体的なロジックを引用ないし説明していないため、典拠が全く典拠の役目を果たしていません。(太田)
 池田の構想には、英国が賛成の意向を示すことになる。
 しかしながら、池田構想は、それまで円ブロック化政策の下に華北向け輸出で潤っていた中小商工業者や雑貨業者に大きな打撃をもたらすものであったために、中小商工業者からの強力な反対運動を受けることになる。
 それどころか、中小商工業者達を円ブロック自給圏確立を主張していた軍部支持に傾かせることにもなった(松浦正孝<(注44)>『日中戦争期における経済と政治』)。
 (注44)196年~。「1985年東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科で学び、1992年単位取得退学。1994年博士(法学)取得。東京大学法学部附属近代日本法政史料センター助手(1992-1994年)、同助教授(1994-1995年)、北海道大学法学部助教授(1994-2002年)、同大学院法学研究科教授(2002年-2012年)を経て・・・立教大学法学部教授。専門は日本政治史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A3%E5%AD%9D
⇒ここは、いかに、挙国一致内閣の下でも、日本で、当時、民主主義が機能していたか、を示すものです。(太田)
 それは、円ブロック化政策という中小商工業者たちへの実質的な補助金ばらまき政策を始めてしまったことが、日本の対外政策を大きく誤らせることになったことを意味していた。
⇒ここは、典拠が付いていないように見受けられますが、どうして「円元パー」政策が「中小商工業者たちへの実質的な補助金ばらまき政策」と言えるのか、説明がないのは不親切です。
 中小商工業者達が輸出代金を現地で法幣に換えて、更にヤミ市場で円に換えて金額を膨らませるという、鞘取りを行った、ということを示唆しているのかもしれませんが、そんな鞘取りは、華北に輸出していた「中小商工業者」ならずとも、ヤミ為替市場にアクセスできる者なら誰でもできたはずですから、さっぱり訳が分かりません。(太田)
 結局、池田構想は、昭和13年10月の漢口攻略後に政府内部の強硬派がとった強硬路線の前に押しつぶされてしまう。・・・
 この時の強硬路線は、軍ではなく政府の方針に添ったものであった。
 昭和13年1月の国策決定の御前会議で、統帥部側が蒋介石政権との和平協議継続を主張したのに対して、政府側が交渉打ち切りで押し切ったのである。
 その背景には、弱腰を見せれば為替が下落するのではないか(『木戸幸一<(注45)(コラム#3562、4376、4444、4599、5684、7179)>日記』)といった思惑があったとされている(『昭和天皇と戦争の世紀』305~312頁参照)」(101~、114~115)
 (注45)1889~1977年。明治の元勲である木戸孝允の甥。学習院、京大法、農商務省、商工省。文部大臣、厚生大臣、内務大臣を歴任後、内大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
 内大臣(Lord Keeper of the Privy Seal)。「昭和期になると、・・・元老の存在感が薄くなるにつれ、元老に代わって重臣会議を主宰する形で後継首班奏薦(内閣総理大臣辞任後の後任の指名)の中心的存在となった。重臣との折衝や意見聴取をおこない、さらに軍の統帥事項に関しても天皇に侍立する形で情報を得られる立場であった内大臣は、宮中のみならず府中(政府内・政局)にも影響力を及ぼし得る重職となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E5%BA%9C
⇒松元は、(私は必ずしもそうは見ていないわけですが、)「円元パー」政策について、それが日本に経済戦での敗北をもたらすことが必至であって、そのことは、(内外の)経済通にとっては常識であった、と主張しているところ、仮にこの主張が正しいとすれば、天皇のところに上がる情報を全て掌握していた内大臣の木戸なら、当然、経済情報全般も掌握していたはずであり、現に、彼は、対蒋介石政権宥和政策が為替を下落させることを心配する記述を日記に記しているほどなのですから、「円元パー」政策が為替を下落させるであろうことを心配する記述がこの日記のどこかに出てきて不思議はないというのに、どうやら、出てきていないようであること、況や、この両政策の得失を比較考量した形跡など全くなさそうであること、からすると、松元の主張そのものが、こういった点からも、根拠薄弱なものに見えてきます。
 なお、私が、この本の「円元パー」政策に係る部分を、端折ることなく紹介しているのは、この部分が、(この本のタイトルが『持たざる国への道』であるところ、)「持たざる国」がこの政策によってもたらされ、それが日本の対英米開戦と敗戦へとつながった、との、この本のテーマに係る核心部分だからです。(太田)
(続く)