太田述正コラム#8406(2016.5.19)
<一財務官僚の先の大戦観(その30)>(2016.9.19公開)
「<天津事件における>日本軍の強硬姿勢の背景には、日華事変が日本軍の連戦連勝にもかかわらず解決しないのは英国を中心とする蒋介石政権支援があるからとの判断と経済戦での敗戦をこの際何とかしたいとの思惑があった。
⇒「経済戦の敗戦」の部分以外に関しては、その通りであり、また、かかる陸軍の判断と思惑は正しいものであった、というべきでしょう。
例えば、「雲南省の昆明と、<英領>ビルマのラシオ(・・・Lashio)<を>・・・終着点(始発点<とする>・・・ビルマ公路<(Burma Road)は、>・・・昆明からビルマ国境までの区間は20万人の<支那>人労働者によって、1937年の日中戦争時に建設され、1938年に完成した<ところ、>この公路は第二次世界大戦において、<英国>が日本との開戦以前に、<支那>へ軍事物資を輸送するための役割を持って<おり、>補給物資はラングーン(現ヤンゴン)で陸揚げされ、鉄道によってビルマ側の始発点であるラシオへ輸送され<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E5%85%AC%E8%B7%AF
のですからね。(太田)
天津事件に際して、日本軍は天津租界での聯合銀行券の流通、法幣の使用制限なども要求した。
交渉は難航し、その間、昭和15年3月には汪兆銘政権が成立するといった局面も迎えながら、昭和15年6月に日本軍の思惑通りに決着する。
日英間の協定に従って、英国は翌月にビルマからの援蒋ルートの一時閉鎖を発表し、日本の要望に添って中国に和平を促すことになった。<(注48)>
(注48)1940年「7月17日、ビルマ・ルート三か月停止のための協定が日英間に結ばれた。<英国>のこの決定に不満な<米国>の国務長官・コーデル・ハルは、ビルマ・ルート閉鎖は世界貿易に対する不当な妨害であり、<米国>は独自の政策を遂行するとの所見を述べた。・・・ 一方、<英国は>、日本の北部仏印進駐と日独伊三国同盟を理由として、ビルマ・ルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、10月18日より・・・ビルマ・ルートによる援蒋を再開した」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1940_biruma_ruto_saikai.html
⇒7月時点で、ビルマ公路の「一時閉鎖」だけで手を打ったところに、当時の日本政府、恐らくは外務省、の英国に対する及び腰姿勢が見てとれますが、それはそれとして、これまでに何度も指摘した(コラム#省略)ように、日本は、1940年10月18日以降、及び腰姿勢を断ち切り、できるだけ早期に対英のみ開戦を決行すべきだったのです。(太田)
日本軍の強硬姿勢の背景には、欧州でナチスの台頭を受けて英国が極東で強い態度に出られないとの情勢判断があった。
事実、天津事件発生5ヵ月後の昭和14年<(1939年)>9月には、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次欧州大戦が始まったのである。
交渉が決着した昭和15年6月は、ドイツ軍の電撃作戦でダンケルクに追い詰められた34万人の英仏軍がダイナモ作戦で英国本土への撤退を完了した<(注49)>月であった。
(注49)ダンケルクの戦い(Battle of Dunkirk。1940年5月10日~6月4日)。「<英>軍とフランス軍、あわせて約35万人をダンケルクから救出す<べく>、<英>国内から軍艦の他に民間の漁船やヨット、はしけを含む、あらゆる船舶を総動員した・・・史上最大の・・・撤退作戦(作戦名:ダイナモ作戦[(Operation Dynamo)])が発動された。ドイツ軍はアラスの戦いでの連合軍の反撃を、近く行われる連合軍の本格的な反攻作戦の端緒と誤認し、酷使した機甲部隊の温存をはか<るとともに>、ドイツ空軍による攻撃でこれを阻止しようとした。しかし<英>空軍の活躍と、砂浜がクッションとなって爆弾の威力が減衰したことなどもあり、連合軍のほとんどは海からの脱出に成功した。なおこのとき、カレーで包囲されていた<英>軍部隊はドイツ軍を引きつけておくために救出はされなかった。この部隊の犠牲もダイナモ作戦の成功の一因であった。この戦いにより、<英>軍は約3万人の兵員を捕虜として失うとともに、戦車や火砲、トラックといった重装備の大半の放棄を強いられた。このため数十万の兵士がほぼ丸腰で帰還することとなり、<英>軍は深刻な兵器不足に見舞われた<が、>・・・人的資源の保全という意味では非常に大きな成功を収めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%A2%E4%BD%9C%E6%88%A6 ([]内)
しかしながら、そのような協定締結に至る日本軍の強硬姿勢に強く反発したのが米国であった。
天津事件発生3ヵ月後の昭和14年7月、日本軍の理不尽な強硬姿勢に反発した米国は、日米通商航海条約の破棄を通告し、昭和15年1月に失効させ、石油と屑鉄の輸出許可などに踏み切った。
⇒説明抜きの、この「理不尽な」という修飾語句の使用は、松元が吉田ドクトリンの走狗であることを如実に物語っています。(太田)
それは、英国が第二次欧州大戦勃発という状況下で日英通商航海条約の破棄を自制していたのとは全く異なる対応で、米国から輸入した軍事物資に大きく依存して大陸で戦っていた我が国に大きなショックを与えるものであった。
⇒石油等の軍需必須物資の入手がいつ不可能になるか分からない状況になったのですから、繰り返しますが、日本は、翌1940年10月18日以降、対英のみ開戦を行って、ビルマ占領によるビルマ公路遮断を果たすとともに、英領マラヤを占領し、場合によっては英領インド侵攻も行い、それらを背景として、強い立場から蘭領インドネシアからの石油確保交渉をオランダ亡命政府と行うべきだったのです。
(オランダ(本国)は、1940年5月10日から1940年5月17日までのオランダにおける戦いの敗北によって、ドイツに占領され、オランダはロンドンに亡命政府を設けていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%88%A6%E3%81%84_(1940%E5%B9%B4) )
政府は、米国の通商航海条約の廃棄通告を受けて、改めて「東亜新秩序」が排他的なブロックではないことを強調して米国との関係を取り繕おうとした。
昭和15年3月の外交文書では「東亜は、全く日本も平等の条件において全世界に開放して可なり」とした(『アジア主義を問いなおす』)。
しかしながら、そのような文章を作ってみても、もはや日本軍の強硬姿勢に反発する米国の姿勢を変えることはできなかった。
石橋湛山によれば、それは「米国は今正式には交戦国ではないけれども、少なくとも経済的には交戦国と異ならな」くなった事態であった。」(104~106)
⇒ビルマ公路完成後、それを閉鎖しなかった時点で、英国もまた経済的には交戦国と異ならぬ事態にあいなっていたのであり、通商航海条約廃棄通告の時点で、(英国は、通商航海条約こそ廃棄していなかったけれど、)米国が英国と足並みを揃えた、と日本政府・・陸軍を除く・・は受け止め、その英米一体観はより確固としたものになったと思われます。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その30)
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