太田述正コラム#8410(2016.5.21)
<一財務官僚の先の大戦観(その32)>(2016.9.21公開)
「国民の対米感情が悪化していく中で、経済力が伴わない状況で米国と戦っても勝ち目がないという合理的な判断は徐々に失われていった。・・・
昭和13年には、大蔵省事務次官から企画院次長になっていた青木一男<(注50)>(近衛首相とは旧制第一高等学校時代からの友人)が各省次官を集めて我が国の戦争遂行能力の分析を行ったが、山本五十六海軍次官、山脇正隆陸軍次官をはじめ軍人を含む参加者全員が一致したのは、我が国は英米との長期戦に耐えることはできないとの結論で、その結果は近衛首相と宇垣外相にも極秘に報告されていた。
(注50)1889~1982年。「農家・・・の長男・・・<一高・東大法卒。>賀屋興宣・石渡荘太郎とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、・・・対満事務局次長に転出を余儀なくされる。1937年(昭和12年)近衛文麿首相の要請により企画院の創設に携わり、次長に就任、1939年(昭和14年)には総裁となる。同年貴族院勅選議員に勅任される。同年8月、企画院総裁を兼ねたまま阿部内閣に大蔵大臣として初入閣。その後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済政策を指導する。1942年(昭和17年)には東条内閣で初代大東亜大臣を拝命し、大東亜会議などの施策に携わる。部下に今井武夫らがいた。」
⇒松元、省の先輩に勝手に事務次官歴を付与しちゃっていますが困ったものです。
さて、この「分析」、そもそも英米一体論に立脚している点で、少なくともこの時期においては無意味な代物でした。
恐らくは、外務省が、その省是的先入観を陸軍に押し付けたものでしょう。(太田)
天津事件直前の昭和14年3月に戦時物資の動員計画を立案した企画院の文書も「東亜新秩序」確立のためには対米関係の調整が最も重要であるとしていた。
昭和14年7月には天津事件に反発した米国が日米通商航海条約の破棄を通告してきたが、同年8月に成立した阿部信行<(注51)(コラム#46、5016)>(元海軍大将)内閣も、ドイツ軍のポーランド侵攻後の昭和15年1月に成立した米内<光政(注52)(コラム#821、830、2925、3964、4274、4276、4376、4444、4454、4546、4548、4621、4749、4759、4998、5004、5006、5016、5018、5030、5426、5610、6262、6282、6288、6296、7633、7770、7831、8342、8368)>(元海軍大将)内閣も親英米路線(三国同盟反対)に変わりはなかった。」(107~109)
(注51)1875~1953年。「金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学校(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。・・・陸軍大学校<卒>・・・。・・・二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。
1939年(昭和14年)8月30日に内閣総理大臣に就任した。・・・同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれ、また、畑俊六、伍堂卓雄や塩野季彦派の宮城長五郎の入閣等から当時の読売新聞紙上では「一中内閣」と持て囃されもした。 当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した。しかし阿部内閣は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年(昭和15年)1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。・・・1944年(昭和19年)より朝鮮総督。・・・
総辞職の際に原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C
(注52)1880~1948年。「旧盛岡藩士・・・の長男として生まれ・・・、海軍兵学校・・・に入校。・・・海軍大学校卒・・・<駐>ロシア・・・大使館付駐在武官補佐官。・・・<シベリア出兵中>ウラジオストック駐在・・・海相・・・首相<(1940年)>・・・
<海相>当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は<第二次上海事変の時も海南島作戦の時も>派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった。・・・
<また、1938年>1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF
⇒同趣旨ですが、松元は、英米一体論に立ったところの、親英米路線、という括り方をしてはいけないのです。
「陸軍という国とそれ以外の国」という阿部の感想は、対赤露抑止という国家戦略に最も忠実で、相対的に最も的確な国際情勢認識を抱き、だからこそ、国益に最も忠実であった陸軍から見て、自分達の利益の維持伸張をまず考えた海軍、そして、英米一体論のような誤った国際情勢認識を抱き、それを陸軍に押し付けた外務省、という状況についての驚愕と絶望の率直な吐露であった、と私は見ています。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その32)
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