太田述正コラム#8414(2016.5.23)
<一財務官僚の先の大戦観(その34)>(2016.9.23公開)
「このような対英米戦争には勝ち目がない、対米関係に配慮しなければならないという合理的な姿勢が、経済戦の敗北で国民生活が窮乏化する中で変化していってしまったのである。
⇒英米一体論の問題性についても、経済戦の敗北なる観念の存在に対する疑義についても、どんなに耳タコでも繰り返さざるをえません。
松元は、少なくとも、国民の間での経済戦敗北論議の一端を示すべきですが、そんなものは存在しないからこそ、示しようがなかった、ということでしょうね。(太田)
それは、最終的には米国の参戦はあり得ないとの希望的な観測が行われ、それに異を唱えることが出来ない雰囲気が形成されていった中でのことであった。
対米交渉が行き詰まりを見せるようになった昭和16年<(1941年)>8月には「戦争経済研究班」の後身である「総力戦研究所」<(注56)(コラム#4193、4377、4475、4515、5039、5608、7592)>が日米戦日本必負の研究をまとめ、近衛首相と東条陸相に報告した。
(注56)誰も指摘していないが、総力戦研究所は、英国の国防大学(National Defence College。私が研修を受けたRoyal College of Defence Studies(RCDS)の前身)を参考に設置された、と見ている。
但し、英国防大学/RCDSでは、共同研究的なものは行われない。
「昭和16年(1941年)4月1日に入所した第一期研究生は、官僚27名(文官22名・武官5名)と民間人8名の総勢35名。その後4月7日になって、皇族・閑院宮春仁王(陸軍中佐。当時、陸軍大学校学生)が特別研究生として追加入所した。一期生は昭和17年(1942年)3月まで研究・研修を行い卒業となった。・・・
第一期生の入所から3か月余りが経過した昭和16年(1941年)7月12日。2代目所長飯村穣(陸軍中将)は研究生に対し、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画を発表。同日、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。
模擬内閣閣僚となった研究生たちは7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは現実の日米戦争における・・・戦局推移とほぼ合致するものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
しかしながら、報告を受けた陸軍省と参謀本部の合同会議の大勢は「相手を過大評価するのは臆病だ」というものであった(『アジア主義を問いなおす』)。・・・
⇒既に1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結されていたというのに、日本と米国の間だけの戦争を想定したというのですから、これもまた、結果の明白な、単なる頭の体操であった、というべきでしょう。
(なお、ソ連の参戦とは、1941年4月13日に署名された日ソ中立条約が5年後に期限切れとなる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
時点での参戦を予想した、ということだけでしょうね。)
いずれにせよ、松元は、当時の日本の軍事情勢分析の甘さを嗤う前に、1941年8月時点の主要諸国の軍事情勢分析と比較検証すべきでした。
前にも(コラム#5039で)示唆したことがありますが、ドイツについては言うまでもないところ、(2か月前の6月の時点で)独ソ戦とそれに伴う何千万人もの自国の人命の犠牲を全く予想していなかったソ連、太平洋戦争が始まれば、同戦争に「勝利」しても、国際情勢音痴の米国の支援が受けられなくなって中国共産党に敗北して亡国の徒となる可能性があることが予想できなかった蒋介石政権、同じく、日本に、その対ソ抑止戦略を全世界的に肩代わりさせられる羽目になることを予想できなかった米国、太平洋戦争が始まれば日本の東南アジア席巻によって大英帝国の早期瓦解が不可避化してしまうことが予想できなかった英国、と、軒並み、考えようによっては、日本の誤判断など霞んでしまうような、深刻な誤判断のオンパレードであった、と言えるのであって、日本よりも判断が的確であったのは、中国共産党くらいなものでした。
松元に限らず、戦後日本の知識層の、かかる、比較の視点の欠如と日本卑下とが、戦後韓国の史観におけるそれらと瓜二つであることは、まことに興味深いものがあります。(太田)
陸軍が米国には日本と戦う意志が弱いとの希望的観測を取るようになってきた中で、海軍でも、昭和16年に入る頃には石川信吾<(注57)>海軍大佐の南進論が大勢を占めるようになっていたが、同年6月に独ソ戦が始まってバルバロッサ作戦でのドイツ軍の優勢が伝えられると、その情勢下なら日本が南進しても石油の禁輸はありえないとの希望的な観測が行われるようになった。
(注57)1894~1964年。山口県出身。海兵。最終階級は海軍少将。「1931年(昭和6年)12月、軍令部参謀(第2班第3課)在任時に、大谷隼人名で・・・<無許可で>『日本之危機』を出版し、米国に対抗して日本の満蒙占領を強く主張。また<米国>との戦争は避けられないというもの・・・
<また、>内閣書記官長の森恪と談判し海軍予算三千万円を獲得している。これは越権行為であったが、黙認された。・・・
<そして、>軍務局・・・第二課長<時代>に・・・<彼を始めとする>対米強硬派が中心となり、海事国防政策委員会第一委員会が組織され、海軍政策の作成が行われた。1941年(昭和16年)6月に、第一委員会は報告書『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』を提出した。その内容は、日独伊三国軍事同盟を堅持し、南部仏印に進駐し、米国の禁輸政策が発動された場合は直ちに軍事行動を発動するという趣旨のものであった。委員会を主導したのは石川と[軍令部一部一課長の]富岡定俊とされ、のちに石川は「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%90%BE
富岡定俊(1897~1970年)。海兵・海大。男爵。最終階級は海軍少将。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E4%BF%8A
そして、7月に仏印への進駐が行われ(岩間敏『戦争と石油(1)』『石油・天然ガスレビュー』2006年1月)、たちまち石油の禁輸を招くことになったのである。
ところが、そのような事態になっても、なお米国との戦争が避けられるとの希望的観測は、指導層の間で真珠湾攻撃の1月前までは残っていた。
昭和16年10月18日に蔵相に就任した賀屋興宣は、蔵相就任にあたって東条英機首相から「日米開戦を極力回避する」との言質を取っていた(『賀屋興宣『私の履歴書』)。
しかしながら、戦争を決意していた米国ルーズベルト大統領の前に、それはむなしい観測であった。」(109~110)
⇒ドイツが英本国侵攻計画を遂行中に対英のみ開戦をすることが日本にとって最善であったわけですが、1941年12月の時点ですら、開戦するのであれば、対英のみ開戦すべきだったのです。
そうしておれば、「<ロ>ーズベルト大統領」がいかに「戦争を決意してい」ようと、米国の対日開戦を米世論は許さなかったことでしょう。
(その場合、独ソ戦は長引き、日本は、双方が消耗し尽くすのを高みの見物をしながら、恐らくは、インド亜大陸全体を「解放」した上で英国と有利な和平を結び、分割なきままインド亜大陸の独立を達成させていた可能性があります。
もちろん、蒋介石政権は打倒され、汪兆銘政権が支那本土全域の支配を実現できたでしょうね。中国共産党は、案外、ソ連との決別を宣言した上で、同政権に合流したかもしれませんよ。)
対米開戦を不可避なものとして、陸軍、ひいては東条首相に押し付けたのは、アホ外務省の英米一体論を最大限援用しつつ、海軍予算獲得のために、石川信吾らを泳がせて、日米戦不可避論を煽り立ててきた海軍であり、陸軍ではなく、海軍(と外務省)こそ、敗戦責任を一手に負わなければならなかったのです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その34)
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