太田述正コラム#8418(2016.5.25)
<一財務官僚の先の大戦観(その36)>(2016.9.25公開)
「盧溝橋事件以降、軍事費の増大を賄うための公債が止め処もなく発行されるようになっていくが、その前史が二・二六事件で高橋是清が暗殺された後の馬場財政(広田内閣)であった。
それは、北進を主張した陸軍と南進を主張した海軍の両者の主張を認める形の妥協という極めて不合理なものであった(『昭和の動乱』)。
軍部の圧力に屈した馬場<(注58)コラム#6274、6290、8338)>蔵相は、陸海軍予算の同額ずつの大幅な増加のために必要となる公債発行<を行うこととした。>・・・
(注58)1879~1937年。「旧幕臣・・・の長男として生まれる。<一高・東大法卒。大蔵省入省。韓国統監府勤務を経て法制局長官、貴族院勅選議員、日本勧業銀行総裁。>・・・彼はもともと正統的な均衡財政論者だったとい<うが、>・・・勧銀総裁として金解禁後の不況による農村部の疲弊をつぶさに目にし、また満州事変以後ソ連と直接で国境を接することになって軍備の重要性を再認識したこともあり、この頃から積極財政主義に転向していったと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E3%81%88%E3%81%84%E4%B8%80
⇒「陸海軍予算の同額ずつの大幅な増加」は確かにばかげており、予算は陸軍に傾斜配分すべきだったと私自身は思いますが、陸海軍を統合した国防省の萌芽的なものすら、導入する機運がなかったところの、陸海軍完全並列の当時の日本の政府部内で、蔵相にその種の判断を求めるのは無理というものでしょう。(太田)
馬場蔵相は、そのような政策を実施するに当たって津島寿一次官を退任させ、軍部と強硬に渡りあってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させ、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと異動させた。・・・
<かかる政策の>正当化の背景にあったのは欧州において昭和8年<(1933年)>に誕生したヒトラー政権が大幅な財政赤字の下に軍備を拡張しながら好調な景気を演出していたという事実であった。
⇒果たしてそうか。
「高橋是清<は、>・・・1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
という、いわゆる高橋財政を、むしろヒットラー政権が真似をした可能性の方が大ではないでしょうか。
問題は、高橋が、「1934年(昭和9年)に、・・・岡田啓介首班の内閣にて・・・<この>政策はほぼ所期の目的を達していた<ところ>、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算の縮小を図った」(上掲)ことでした。
当時の国際軍事情勢に鑑みれば、軍事予算を縮小する選択肢などなかったにもかかわらず、です。
馬場は、その的確な国際軍事情勢認識をも踏まえ、高橋財政に復帰させようとしただけのことでしょう。(太田)
ドイツの軍事費は、昭和11年度には対GDP比13パーセントにも達していた。・・・
それに対して、当時の日本の軍事費はGDP比5.6パーセント、英国の軍事費は4パーセントであった。・・・
馬場蔵相は、軍備拡張の財源として必要な公債発行のための人為的な低金利政策を押し進めた。
昭和11年<(1936年)>4月には、日銀の公定歩合を戦前の最低水準である9厘とし、5月に3分利率での公債借り換えを行った。
<しかし、それは、>・・・昭和12年前半には国債価格の低落(長期金利の高騰)を招来して行き詰まることになる。・・・
<また、>昭和12年度予算で馬場蔵相が軍事予算を要求どおり認めた結果は、軍需品輸入急増による為替の下落であった。
それは、軍拡を支える資材の輸入にとって死活的な問題であり、昭和12年3月、日本銀行は5年ぶりの金現送を再開して為替相場の維持に努めた。・・・
そのような状況を背景として、帝国議会では浜田国松が「腹切り問答」を展開して軍部の政治干渉を批判し、広田内閣が倒れるといった状況になったのである。
⇒松元はこの部分に典拠を付していませんが、上掲のウィキペディアは、「昭和十二度予算案が明らかになると、軍需資材の需要増を見込んだ商社が一斉に輸入注文を出し、輸入為替が殺到して円が下落、輸入物資の高騰を招く混乱を招いた。」とのみ記しているところ、一体、〈長期金利の高騰〉と〈為替の下落〉のどちらが「行き詰ま」りの主因であったのか、知りたいところです。
ちなみに、「「腹切り問答」・・・に憤慨した寺内<寿一>が単独辞任をちらつかせながら衆議院を懲罰的に解散することを広田に要求すると、広田はあっさりと閣内不一致を理由に内閣総辞職したため、結局この予算案は廃案となった。しかし後に広田は賀屋興宣に対し、実は「腹切り問答」は助け舟のようなものだったことを打ち明けた。本当は馬場財政のあおりで外国為替や経済情勢が混乱して、どのみち内閣を投げ出さざるを得なかったのだと」(上掲)、広田は、どちらかと言えば、円の下落を主たる問題視していたようです。(太田)
そのようにして倒れた広田内閣の後継となった<ところの、1937年2月発足の>林銑十郎内閣の結城<豊太郎(コラム#4713)>蔵相は、国家の経費の「急激な膨張のために経済界に悪い影響を生ずるようなことは避くべきである」として馬場前蔵相の路線を修正することになる。
加藤陽子は、当時の状況を、軍が「生産力拡充計画の推進のためにも、財界と金融資本の前に膝を屈」したものと分析している(『満州事変から日中戦争へ』)。」(117~118、143~144)
⇒これは、挙国一致内閣の下でも、日本の議会制民主主義が機能していたことを示すものですが、いかんながら、またもや、軍事力整備が足踏みを続けることとなり、そのこともあって、私見では、1937年7月に勃発し、同年8月に第二次上海事変でもって本格化したところの、日支戦争での、日本による、開戦劈頭における短期間での勝利を不可能にしてしまったのです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その36)
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