太田述正コラム#8424(2016.5.28)
<『善の研究』再読>(2016.9.28公開)
1 始めに
 本日のディスカッションで予告した表記のコラムです。
 この本は、大昔に、岩波文庫のを買って、読みかけたものの、その「難解」さにすぐ挫折するとともに、何となく「善」の研究、というタイトルに違和感を覚えて現在に至っていました。
 というのも、『善の研究』(1911年)は、「西田哲学の最初期のもので、日本初の独創的な哲学体系。 当初は『純粋経験と実在』という題名のもとに構想されていたが、出版社の弘道館が反対したため、この名に改題された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
とされているところ、私が挫折するまでに読んだ限りでのこの本の印象は、「純粋経験と実在」的なものであったからです。
 今にして思えば、善について記されている、この本の後半の箇所を先に読むのでした。
 そうしておれば、その少し前に読んだ、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』はすっと頭に入った・・とは言っても、現在の理解に比べれば表面的な理解でしたが・・のですから、西田が和辻とそう違ったことを言っていない、いや、西田も和辻同様、日本文明の論理を解明し、それを踏まえた倫理を打ち出そうとした倫理哲学者であったことに、その時点で、うっすらとであれ、気が付いていた可能性があったのに、残念なことでした。
 結論的なことを先に書いてしまいましたが、そういうわけで、今回は、この本の中で、善について記されている、しかも、その結論的部分だけを再読した次第です。
 なお、西田について、最低限踏まえるべき事柄は下掲の通りです。↓
 西田幾多郎(1870~1945年)は、無学歴であり、「高校の同級生である鈴木大拙の影響で、禅を打ち込むようになる。20代後半の時から十数年間徹底的に修学・修行した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E
 そして、四高教授等を経て、京大助教授、教授となり、「観念論と唯物論の対立などの哲学上の根本問題の解決を純粋経験に求め、主客合一などを説いて、知識・道徳・宗教の一切を基礎づけようとした。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6 
2 『善の研究』再読
 「善とは一言にていへば人格の實現である。・・・
⇒当然その「人格」とは、人間主義的な人格でなければならないはずです。(太田)
 佛教の根本的思想である様に、自己と宇宙とは同一の根底をもって居る。
 否直に同一物である。・・・
 我々が實在を知るといふのは、自己の外の物を知るのではない。
 自己自身を知るのである。
⇒自分自身の本来的人間主義性を自覚せよ、と西田は言っているのです。(太田)
 實在の眞善美は直に自己の眞善美でなければならぬ。
 然らば何故に此の世の中に偽醜悪があるのかの疑が起るであらう。
 深く考へて見れば世の中に絶対的眞善美といふ者もなければ、絶対的偽醜悪といふ者もない。
 偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全貌を知らず、一方に偏して全體の統一に反する所に現はれるのである。・・・
 内面的動機が私利私欲であって、唯外面的事實に於て善目的に合うて居るとしても、決してそれが人格實現を目的とする善行といはれまい。・・・
⇒利己主義的な自分は、本来の人間主義的な自分ではないのだよ、というわけです。(太田)
 我々の最深なる要求と最大の目的とは自ら一致するものであると考へる。
 我々が内に自己を鍛錬して自己の眞體に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合ふ様になる、之を完全なる眞の善行といふのである。
⇒「自己を鍛錬して自己の眞體」たる人間主義的な自分を見出すことさえできれば、爾後、己が欲することをなすことがみんなのためにもなるよ、というのです。(太田)
 かくの如き完全なる善行は一方より見れば極めて難事の様であるが、又一方より見れば誰にもできなければならぬことである。
 道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない。
 唯自己にある者を見出すのである。・・・
⇒そして、それは、決してむつかしいことではないよ、と西田は言ってくれているのです。(太田)
 いかに小さい事業にしても、常に人類一味の愛情より働いて居る人は、偉大なる人類的人格を實現しつつある人といはねばならぬ。・・・
⇒その上で、一所懸命に励みさえすれば、どんな人でもみんなのためになる人生を送ることができるのだよ、と。(太田)
 善を學問的に説明すれば色々の説明はできるが、實地上眞の善とは唯一つあるのみである。
 即ち眞の自己を知るといふに盡きて居る。
⇒だから、善とは、自分の人間主義性に目覚めることなんだよ、と西田は総括しているのです。(太田)
 我々の眞の自己は宇宙の本體である。
 眞の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本體と融合し神意と冥合するのである。
 宗教も道徳も實に此處に盡きて居る。」(176~177、179~180)
⇒宗教も道徳も、人の人間主義化(人間主義への回帰)と人間主義の実践を旨とするものである、という趣旨でしょうが、(「道徳」の方については立ち入らないことにしますが、)ここは誤解を避けるために、「宗教」ではなく、「仏教」と西田は限定的に記した方がよかった、と私は思います。
3 終わりに
 西田のウィキペディアは、彼の名言として、下掲の4つを挙げています。
一、人が環境をつくり、環境が人をつくる
二、善とは一言にていえば人格の実現である
三、衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある
四、自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素となることである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E 前掲
 ニは既に紹介しましたが、一、三、四・・『善の研究』には出てこない?・・は、いずれも、人間主義が、個人主義でも全体主義でもないことを指摘しているものです。
 さて、この西田の『善の研究』にしても、和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』或いは彼の主著の『倫理学』にしても、まともな欧米語訳は出ていないようです。(それぞれのウィキペディア参照。)
 中根千恵の『タテ社会の人間関係』などという凡著が翻訳されてかなり多くの諸国で読まれた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%8D%83%E6%9E%9D
ことを考えれば、『人間の学としての倫理学』が日本論としてそれ以上読まれていても不思議はないのですが、恐らくは、日本論というよりは、普遍的な倫理学の体裁をとっているところが、欧米の連中にはお気に召さないのでしょうね。
 では、『善の研究』がどうして欧米で注目されないのか?
 これまた、和辻・・和辻は西田に大きな影響を受けています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%BE%BB%E5%93%B2%E9%83%8E
・・と同工異曲の普遍的な倫理学の体裁をとっていること、人間主義回帰、すなわち、悟りの実践的方法論が(日本の仏教には備わっていないこともあり)示されていないこと、そのこともあって、人の本来的人間主義性を「証明」できていないこと、というより、「証明」する術がないこと、でしょうね。