太田述正コラム#8428(2016.5.30)
<一財務官僚の先の大戦観(その40)>(2016.9.30公開)
「実は、盧溝橋事件以降に獲得された陸軍の臨時軍事費は、対中国戦を名目にしながらその大宗(6割)は将来の対ソ戦の準備に振り向けられていた(『満州事変から日中戦争へ』)。
軍部は対中戦費の必要性を隠れ蓑にして、軍需品の備蓄等のための予算を、臨時軍事費の名の下にほしいままに獲得していた(『戦時日本の華北経済支配』)。
昭和12年に設置された臨時軍事特別会計<(注69)>は、基本的に陸軍費と海軍費しかなく、毎年の決算もなかったことから、大蔵省主計局も実際に具体的な査定をすることはできなかったのである。
(注69)臨時軍事特別会計設置例:日清戦争(ただし、台湾平定を含む):1894年6月1日-1896年3月末日、日露戦争:1903年10月-1907年3月、第一次世界大戦(ただし、シベリア出兵を含む):1914年8月-1925年4月、第二次世界大戦(ただし、日中戦争を含む):1937年9月-1946年2月
「作戦行動はその性格上臨機応変かつ機密性が求められることから、特別会計における歳出の款項は概要のみが示され、その内容が明確にされることのないまま支出され、しかも必要とあれば次々と追加予算が出される仕組となっていた。しかも会計法などが認めていない費目間の流用・予算外契約・資金前払い・前金払い・概算払いなどが認められ、軍部の自由裁量によって運用が行われ、政府や大蔵省、帝国議会によるチェックがほとんど働く事がなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%99%82%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%B2%BB%E7%89%B9%E5%88%A5%E4%BC%9A%E8%A8%88
⇒明治維新以降、対外戦争の時は必ず設けられ、内容的にもそれまでのものと同じものであったところの、先の大戦(含日支戦争)時の臨時軍事特別会計を松元は否定的に見ているわけですが、それならば、過去の事例を列挙した上で、いかに臨時軍事特別会計なるものが必要性、合理性に乏しいものであったかを説明しなければならないというのに、彼は口を拭っています。
こんな松元には歴史書を書く資格などない、と言わざるをえません。(太田)
そのような状況の下で、とめどない軍事費要求が経済の破綻を招かないようにしようとして大蔵省が考え出したのが「物の予算」であった。
「物の予算」は、昭和12年に賀屋興宣次官が結城蔵相(林銑十郎内閣)に建言したもので、賀屋は続く第一次近衛内閣(昭和12年~13年)で蔵相に就任してその実行にあたった。
賀屋は、その後の東条内閣(昭和16年~19年)でも蔵相を務め、あの戦争で最も長く蔵相を務めることになった。
「物の予算」が導入された昭和13年度予算要求以降、各省は予算要求書に加えて鋼材、銅、鉛、石炭等の30品目の物資受給調書の提出を求められるようになった。
その「物の予算」を物資面、金融面で支えていたのが、輸出入品等臨時措置法と臨時資金調整法の二つの統制法で、輸出入品等臨時措置法によって商工省が輸出入を統制し、臨時資金調整法によって日本銀行が民間部門における企業の設備投資を統制した。・・・
⇒「物の予算」ないし「物資受給調書」という言葉は聞きなれないだけに、松元は出典を明らかにすべきでした。
また、以上の説明だけでは、大蔵省がいかなる権限に基づいて、「物資受給調書」の提出を求めることができたのか、理解できません。(太田)
<そして、最終的には、>日本銀行が、軍需産業一般に対して無制限の資金供給者になった・・・
それは、日本銀行による国債の直接引き受けがインフレにつながるおそれがあるから好ましくないといった次元をはるかに超えた異次元の資金供給が、日本銀行によって行われるようになったことを意味していた。
様々な形で戦時中に政府が軍需企業、財閥系企業などに約束した支払いは960億円に上った(『昭和19年度の国民総生産が745億円)、国策会社等への政府保証債務は、戦後、占領軍総司令部の指令(昭和20年11月)によって保証停止とされて金融機関は膨大な損失をこうむることになったが、実際の負担は国民に回されることになった。
戦時中の貸し出し分を旧勘定に分離してしのいでいるうちに起こったハイパー・インフレーションによって問題が「解消」されたからである(寺西重郎『日本の経済システム』)。
それは、国民にインフレという形での実質的な大増税が課された姿であった。・・・
<話を戻すが、>大量に発行された公債の信頼性は、当時も<最初から>懸念されていた。
その点について帝国議会で聞かれた賀屋興宣蔵相は、多くの公債を出して戦争生産力を増大しうる状況が勝つために必要だとし(昭和17年1月の帝国議会)、そのように発行される公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなる(昭和18年2月の帝国議会)と答弁した。
とはいえ、大量の公債発行や多額の軍需企業への信用供与がインフレを招くという経済原則を政府が忘れたわけではなかった。
そこで行われたのが国民貯蓄奨励運動であった。
昭和13年4月には大蔵省の外局として国民貯蓄奨励局<(注69)>が設置され、貯蓄増強運動が始まった。
(注69)「42年11月には本省内に吸収され国民貯蓄局と改められた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%B2%AF%E8%93%84%E5%B1%80-1317349
昭和14年には賞与の一定割合を国債で支給するようにとの要請がなされた。
昭和15年<には、>・・・国民に対して、給料の半分弱を戦費のために貯蓄し、5分の1を税金として納め、残りで生活することを求めるもので、「欲しがりません勝つまでは」<(注70)>を具体的な数字に落としたものであった。・・・
(注70)「戦時中の有名な標語「欲しがりません勝つまでは」。1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した「大東亜戦争一周年記念」の企画で、32万以上の応募の中から選ばれ・・・た。国民学校5年の少女が作ったとされるこの標語。実は、・・・考えたのは三宅さんの父で<あり、>・・・芝居の脚本や漫才の台本を趣味で書いていた父親が、娘の名前で応募し・・・た<もの>。」
http://withnews.jp/article/f0150731000qq000000000000000G0010401qq000012294A
昭和18年度には、税額の3倍を貯蓄したときには租税を納付したものとみなすとの納税施設法が制定され(谷村裕『私抄 大蔵省史話』)、昭和18年8月からは、一般国民に半ば強制的に郵便局での国債貯金が割り当てられるようになった。
そのような中で、郵便貯金は昭和17年度末の132億円から19年度末には304億円へと増加していった。・・・
先に満州への投資が国内経済の犠牲の上に行われたことを見たが、外地への預金部からの融資残高(昭和20年末)は、中国に10億円余、満州に8億円余、朝鮮に7億円余、南方に1.4億円余、台湾に6000万円余で、面積等を勘案すれば、朝鮮への融資額が最大であった。・・・
膨大な軍事費の大宗が公債で賄われたといっても、公的負担の基本である税の大増税も行われた。
・・・賀屋興宣は戦後に書いた『私の履歴書』で歴代の蔵相で自分くらい増税を行ったものはいないと述べている。」(124~125、127、131~134)
⇒ここでも、松元が、戦争の際にできた制度で、戦後に引き継がれたものが少なくなく、それらが、戦後、大きな役割を果たしたことに全く触れようとしていませんが、それは、先の大戦との日本の関わりを否定的に描くことに彼が腐心しているからこそである、との批判をされても仕方がないでしょう。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その40)
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