太田述正コラム#8440(2016.6.5)
<一財務官僚の先の大戦観(その46)>(2016.10.6公開)
 「それにしても日本が米国と闘わなければならない本質的な理由は無かったのであり、日米開戦は軍部にとっても誤算であった。
 敗戦後、満映理事長室で青酸カリ自決した甘粕正彦<(注90)(コラム#2330、2334、5569)>理事長は理事長室の黒板に「大ばくちもとも子もなくすってんてん」と書いたとされている(山口淑子「私の履歴書」『日本経済新聞』2004年8月30日付)。・・・
 (注90)1891~1945年。幼年・陸士。膝の怪我が理由で歩兵科から憲兵科に転科。「1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の混乱時に・・・いわゆる甘粕事件を起こし<、>・・・1926年(大正15年)10月に仮出獄し予備役となり、1927年(昭和2年)7月から陸軍の予算でフランスに留学・・・<その後の満州での「活躍」については省略。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6
⇒甘粕には、ぜひ長生きをしてもらって、英国が、日本に「大ばくち」を挑んだ結果、胴元の米国によって大金(植民地)持ちの英国も、小金持ちの日本も「すってんてん」にさせられたこと、同じく日本に「大ばくち」を挑んだ蒋介石政権に至っては、「すってんてん」どころか、胴元の米国の逆鱗に触れて殺され(政権を喪失し)てしまったこと、を見届けて欲しかったですね。(太田)
 昭和15年には、それまで三国同盟に反対していた外務省や海軍省も反対の矛を収め<、同同盟が締結された。>
 そして日米開戦を控えた昭和16年11月の時点においては、欧州の戦いにおいて前年に始まった独ソ戦も含めてドイツが圧倒的に勝利を得ると信じる向きが大勢となっていた。
 その前に、「ドイツと協定して戦後の世界の勢力範囲を定めて置かねば(中略)、恐るべきドイツの東亜に対する拡張」を食い止められない。
⇒この判断は必ずしもおかしくはありませんでした。
 というのは、この時点では、まだ米国は対独戦に参戦しておらず、日本が対米開戦したところで、米国が対独開戦するかどうか、定かではなかったからです。
 (現実には、日本の対英米開戦直後のヒットラーによる、三国同盟上の義務ではないところの、不合理な対米開戦によって、米国は、ついに対独参戦が可能になったのですが・・。)
 日本の対英米開戦の3日前の12月5日には、ドイツのモスクワ作戦の失敗こそ確定していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ものの、米国の参戦抜きであれば、独ソ戦が長期膠着状態に陥る可能性だってありましたし、北アフリカ戦線においては、独軍によるエジプト攻略失敗が確定するのは、実に、殆ど一年後の、1942年の11月のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 ですから、米国の参戦抜きであれば、独軍が中東を席巻し、文字通り、「東亜に対する拡張」が現実化する可能性すらあったのです。(太田)
 今、ドイツとともに参戦しなければ「バスに乗り遅れるやも知れぬ」<(注91)>(『昭和の動乱』)と考えられるようになっていたのである。
 (注91)「当時、欧米諸国、とりわけ<ソ連と独伊>で一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられ・・・時の首相近衛文麿[第一次近衛内閣:1937年6月4日~1939年1月5日]は、これを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「<独伊>」、「<米国>」、「日本」の四大勢力により分割支配されるだろうと予想した。そのため日本では、時流に取り残されることを恐れ、また新体制に諸問題の解決を期待する運動が高まり、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが広く使われるようになった。このことが日独伊三国同盟への道を急速に開き、1940年9月27日ベルリンにおいて条約が正式に調印された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF ([]内)
 「1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際に・・・<時の総理の>近衛は、自分を>党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた立憲政友会(政友会)・立憲民政党(民政党)が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦この計画は白紙に戻ることになった。
 近衛の総理辞任後、<欧州>で第二次世界大戦が始まり、国際情勢の緊迫化にともなって日本も強力な指導体制を形成する必要があるとする新体制運動が盛り上がり、その盟主として・・・近衛に対する期待の声が高まった。・・・
 <結局、>近衛<は、>・・・第2次近衛内閣<[第二次近衛内閣:1940年7月22日 – 1941年10月18日]>成立後にこの期待に応えるべく新体制の担い手となる一国一党組織の構想に着手する。なお、その際、近衛のブレーンであった後藤隆之助が主宰し、近衛も参加していた政策研究団体昭和研究会が東亜協同体論や新体制運動促進などをうたっていた。
 構想の結果として大政翼賛会が発足し国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF 前掲([]内)
⇒全体主義ならぬ日本型政治経済体制が、日本においては、特段の「思想」も「政党」も抜きで、満州事変前あたりから構築され始めていたことから、ソ連や独ソにならったところの、特定のイデオロギーを掲げた一党「独裁」政党たる大政翼賛会を創設する必要性などなかったことは明らかであり、近衛の新体制運動やそのスローガンである「バスに乗り遅れるな」は、全く日本の現実に即さない、公家流のお遊びに過ぎなかった、というのが私の見方です。
 なお、一つには、既存政党が総動員体制の構築・・これは日本型政治経済体制の深化によって達成可能だった・・を邪魔しようとした、という嘆かわしい事実、もう一つには、「バスに乗り遅れるな」というスローガンが唱えられるようになったのは、松元の指摘よりも少なくとも1年は早くからだった・・三国同盟締結の後ではなく前だった・・という事実、に、ここで注意喚起をしておきたいと思います。(太田)
 今日では、当時の経済力の違いを考えれば日米戦争は無謀極まりない選択だったとの理解が一般的である。
 しかしながら、その経済面での格差を十分に埋め合わせる国際情勢が生じてきたと多くの人々が信じたのであった。
 なお、彼我の経済力の格差という面だけで見れば、日米戦争のときよりも日露戦争のときのほうが大きかった。
⇒何度も口を酸っぱくして指摘しているように、(この場合は、米国が対独参戦を行うとすれば、米国の経済力からそのための動員分を差っ引かなければならないことはさておき、)日本と米国の比較だけでは意味がないのであって、少なくとも、英国の植民地のインド等や自治領の豪州等の経済力で対独戦動員分の残りも加えた比較を行うべきであって、その場合、差はもっと広がるわけですが、それはともかく、1941年時点の日米間格差の方が1904年次点の日露間格差の方が大きいというのであれば、その根拠ないし典拠を松元は示すべきでした。(太田)
 そして、経済力の格差に関しては、米国が禁輸とした石油なども南方の要地を押さえれば確保できるとされたのである。」(152~153)
⇒ここは、「格差に関しては・・・確保できるとされた」、と、全く文章になっていません!(太田)
 (続く)