太田述正コラム#8442(2016.6.6)
<「真田丸」展>(2016.10.7公開)
1 始めに
本日は、午後3時半過ぎを目途に、「真田丸」展・・正しくは、「2016年NHK大河ドラマ特別展 真田丸」(江戸東京博物館)の内覧会に行ってきました。
同じ会場で開催された前回のレオナルド・ダ・ヴィンチ展(コラム#8276)でもそうだったのでしょうが、「毎月第3水曜日(シルバーデー)は、65歳以上の方は観覧料が無料です。年齢を証明できるものをお持ちください」なーんて案内を読むと、せっかくゲットした内覧チケットの値打ちが下がってしまったような気持ちになります。↓
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/10307/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E3%80%8C%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%B8%B8%E3%80%8D/
http://www.nhk-p.co.jp/event/detail.php?id=578
私も、舛添には足元にも及ばないけれど、セコイですねえ。
2 事前に調べたこと
大枠では、今年の件の大河ドラマは史実に忠実なので、既に放映済の話について調べることはせず、これから放映される部分についても、主人公以外の話を中心に事前に少々調べてから展覧会に行くことにしました。
調べたのはウィキペディアの範囲にとどまっていますが、この大河ドラマをご覧の方にはそれなりの参考になるのでは、ということで、お許しを願います。
さて、まず、主人公の真田信繁(1567/1570~1615年)に関してですが、生年がはっきりしていないのにはいささか驚きました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
次に、主人公の父親の真田昌幸(1547~1611年)についてです。↓
「父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。・・・
昌幸は永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤家の養子とな<るも、>・・・天正2年(1574年)には父・幸隆が死去<した>時・・・に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた<ところ、>天正3年(1575年)・・・の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した。・・・
<関ケ原の戦後処理で蟄居場所とされたのは>高野山<だったが>・・・、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わる。・・・流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され・・・、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようである。昌幸の生活費に関しては<関ケ原の時に徳川方に与したところの、>国許の信之<等>・・・からの援助で賄った。しかし生活費に困窮し、国許の信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出している。このことからも、昌幸が上田を去った後も、信之との関係が疎遠にならず、親密な仲を維持していた事が伺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
真田家の家督は、昌幸に、偶然、転がり込んできたようなものだったのですね。
しかし、昌幸の父親も兄弟も、みんな勇猛で人望があったよう・・息子の信繁も信之も同様・・ですから、誰が継いでいても、真田家は、明治維新まで生き延びたのではないか、という気もします。
また、敵味方に分かれた後も、ずっと、昌幸と信之の関係は情愛に満ちたものであり続けたようで、ほっこりした気分にさせられます。
ところで、昌幸の正室の山手殿(1549?~1613年)・・信繁同様生年もはっきりしない・・は、氏素性が定かじゃないんですね。↓
「山手殿の出自は真田氏関係の編著では公家の清華家菊亭晴季の娘とされている。しかし当時の真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えるとはまず考えられない。なお、主君である武田信玄の正室の実家・三条家と菊亭家は同格であり、この点からもあり得ない。このため、菊亭家の娘としたのは後世の格付けを意識したものとされている。なお、菊亭晴季の娘だったとしても、晴季の生年から実娘とは考え難い。・・・
宇多頼忠の娘<とするのが、>石田氏の系図である『石田氏系図』<であり、>宇多頼忠の別の娘が石田三成の正室になっている<と>記載されている・・・<が、これらのほか、4つも説がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%89%8B%E6%AE%BF
今度は、信繁の兄の真田信之(1566~1658年)についてです。↓
「秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父(妻は石田三成の妻と姉妹<との説あり(上出)>)と弟の信繁(妻が大谷吉継の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、家康の養女を妻とする信幸は家康らの東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に義弟の本多忠政と共に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
⇒真田家の生き残りを図るために、敵味方に分かれたのでしょうが、敵味方への分かれ方を事実上決めたのは、各自の配偶者たる女性達であった、という見方もできそうです。(太田)
信幸は弟・信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避ける為開城請求の使者を派遣、信繁も兄の意を汲み開城に応じた。信幸は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加できなかった。
⇒信之の兄弟愛も感じます。(太田)
戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた<ため、>・・・沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。
⇒後出の、流された父親に対する財政支援を含め、信之は、本当に孝行息子です。(太田)
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。・・・
松代へ移封した際には20万両を持って入封したが、妻の小松姫と共に倹約家として有名であった。また、九度山へ配流された父弟にも生活が困らぬよう自費で生活援助を行っていた。・・・
明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。
同年10月17日に死去。享年93。・・・
<信之は、>温厚な人物であったといわれるが、戦の際は総大将にも関わらず常に先陣を切って進んだと伝わっている。
⇒ここは、余り褒められた話ではありません。
(大阪夏の陣での、弟、信繁による、先陣を切っての突進は、死を覚悟したものだったので、アリですが・・。)
それにしても、あの時代に、戦死もせず、病死することもなく、93歳という高齢まで生きることができたとは、スゴイですね。(太田)
<また、>着用していたとされる着物、胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている。・・・
⇒当時の日本人としては、身長もけた外れの高さです!(太田)
真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫が老中となっている。明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。・・・
明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である・・ここは前述の通り、はっきりしない(太田)・・三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
⇒徳川幕府は、こんな物騒な大名家を、(下掲のように、)厚遇していた、というわけです。(太田)
「真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。・・・
松代藩・・・<の>著名な藩士・・・恩田民親(恩田木工) – 6代幸弘に仕えた勝手方家老。松代藩の財政再建に尽力する。・・・佐久間象山 – 信濃守幸貫が抜擢した蘭学者。急進的な開国論者であったため京の三条木屋町で暗殺される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%A3%E8%97%A9
小松姫については、下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%A7%AB
⇒恩田木工(もく。1717~62年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E7%94%B0%E6%B0%91%E8%A6%AA
・・たまたま太田コラムではこれまで取り上げたことがない・・にしても、佐久間象山(1811~64年)(コラム#4811、7301、8115)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
にしても、江戸時代の超有名人であり、これらの家来が輩出したのは、やはり、初代の信之以下、歴代真田藩主達に明君が多かったからこそでしょうね。(太田)
3 展覧会次第
東京だけで開催されるわけではないこの展覧会・・7月からは、真田ゆかりの地である上田市の市立美術館でも開催(江戸東京博物館で入手したチラシ)・・とはいえ、短期間の開催(4月29日~6月19日)にもかかわらず、学芸員の蘊蓄の深さと熱意がひしひしと伝わってくる、充実した内容でした。
古文書の展示が多かったのですが、湧き上がってきたのは、こういう昔の崩し字を読みこなさきゃ仕事にならない、江戸期以前の日本史学者達への敬意です。
また、信繁の肖像画とされているもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81#/media/File:Sanada_Yukimura.jpg
一つとっても、徳川の世を憚るために、異なった人物の名前が付されているのを信繁と同定したものである、という点からも、彼らが、何が史実かを見極めるだけでも大変なご苦労をされていることが想像できました。
(ただ、あえて申し上げれば、昨今は、史料を読みこなす、史実を見極める、までで力尽きてしまっているためなのでしょうか、惜しむらくは、歴史解釈、ひいては史観の形成、において物足らなく感じる学者が多い印象ですが・・。)
出口で、パンフレット(2200円)を買おうかどうか相当迷ったのですが、私の知らない史実がそれほど披露されていた展示内容ではなかったので、結局、買いませんでした。
「真田丸」展
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