太田述正コラム#8446(2016.6.8)
<私の現在の事情(続x80)/一財務官僚の先の大戦観(その47)>(2016.10.9公開)
–私の現在の事情(続x80)–
本日、09:00過ぎにみずほプレミアムクラブのデスクに電話して、昨日記したクレームを伝えたところ、10:30頃に、みずほ銀行大森支店から電話があり、キャッシュカードの件については、対応に時間がかかったこと、その過程で間違った事実を私に伝えたことについて、遺憾の意の表明がありました。
もう一つの件は、みずほ銀行に設定してあったNISA口座を、昨年10月26日に解約して新たにみずほ証券でNISA口座を開く手続きを取ったにもかかわらず、いまだに口座開設(移転)がなされないという問題だったのですが、みずほ証券が、今年1月に私に送付しなければならなかったところの、口座開設手続きの書類の送付を忘れていた、ということが判明しました。
(ちなみに、みずほの銀行と証券は、大森駅前の同じビル内に同居しています。)
輪をかけてお粗末だったのは、私が、今年の2月10日に、まだ口座は開設されていないのか、と同証券に問い合わせた際、手続きがまだ完了していないが、完了したら連絡する、との回答があったことです。
しかも、それからしばらく経ってから、同証券の同じ社員から、株式講演会に出席しないかという電話があってお断わりした折、先方から、わざわざ、開設手続きはもう少しで完了すると思います、という一言があったときています。
要するに、彼は、私の口座開設(移転)手続きの進捗状況を、きちんと確認しないまま、二度も私に対応していたわけです。
電話をかけてきた銀行の人の話では、みずほ証券で口座を開設するためには、みずほ証券から私宛にこれから送付される書類に所定事項を記入した上で、それに、昨年末にみずほ銀行の方から私に送付してきてあったところの、「非課税口座廃止通知書」(NISA口座解約通知書)を添付し、みずほ証券に提出して欲しいとのことだったので、慌てて、電話片手に「通知書」を探したら、すぐ出てきたので一安心しました。
というわけで、今度こそ、一件(二件?)落着です。
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–一財務官僚の先の大戦観(その47)–
「戦時中のインフレーションは、日本国内でよりも日本軍占領地での方が、はるかに深刻だった。
それは、物価統制もない中で、不換紙幣である軍票<(注92)>などで無理な物資調達を行えば、当然起こってくる事態であった。
(注92)軍用手票(ぐんようしゅひょう=military currency=military payment certificate)。「戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣である。政府紙幣の一種と解されることもある。略して「軍票(ぐんぴょう)」とも呼ばれていることが一般的である。・・・
軍票を初めて発行したのが英仏戦争時の<英国>で1815年のことであった。・・・
1907年に締結されたハーグ陸戦条約で、条約締結国は戦時下の占領地で徴発する行為が禁止され、同条約第52条<で、>・・・現金もしくは軍票で代償を支払うこととされた。
このように軍隊が所属する国家の通貨制度とは分離して軍票を使用する制度を用いるのは、自国の通貨を使用すると通貨供給量が激増し、結果的にはインフレーションで経済破綻する恐れがあるほか、敵国に自国通貨が渡ると工作資金になる危険性があるなど、戦略面からの要請があるためである。また発行体の保証する事実上の手形であるため、発行体が現有する手持の貴金属による支払いに拘束されることがなく、実際の経済力以上の物資の徴発も可能でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E7%94%A8%E6%89%8B%E7%A5%A8
先の戦争における軍票は、池田蔵相が無理な「円元パー」政策を見直そうとした昭和13年9月、「軍用手票発行要領」が閣議決定されて中国大陸で日本円との交換用に発行されたのが最初であった。
昭和15年11月には日系通貨の軍票一色化が図られ<た。>・・・
<そして、>昭和17年3月に南方開発金庫<(注93)>が創設されると、外貨建て南発券に切り替えられていったが、香港、および海南島では敗戦まで軍票の発行が続けられた(『戦時日本の特別会計』)。・・・
(注93) Southern Development Bank。「南洋開発金庫法に基づいて1942年 (昭和17年) 4月に発足し、GHQによって活動中止を指示される1945年(昭和20年) 9月まで、現在のフィリピンからミャンマーにかけての南方方面で金融業務を行った特殊法人。現地の日本企業に対して融資や送金業務を行ったほか、南方開発金庫券の発行、日本軍への貸付など、当地にて実質的な中央銀行としての役割をはたしていた。・・・
1943年 (昭和18年) 、戦費が政府財政を逼迫し始めたため、南方で展開する日本軍の予算については、南方開発金庫券という現地でのみ流通する紙幣を発行し、それを日本軍に貸し付けることで賄うこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E9%96%8B%E7%99%BA%E9%87%91%E5%BA%AB
卸売物価は、昭和9年から11年を100として昭和24年(ドッジ・ラインでインフレ終息)には2万2000になった(伊藤正直『戦後ハイパーインフレと中央銀行』)。・・・
<ちなみに、>北京の物価は昭和11年を100として、終戦直前の昭和20年8月に8万9472。シンガポールでは昭和16年12月を100として昭和20年8月に3万5000、ジャカルタで3197、ラングーンで18万5648となった。ただし、これらの数値には、昭和20年8月という日本の敗戦が明らかになっていた時点での売り惜しみなどによる要因も入っていると思われる。」(155~157)
⇒外国の物価指数に典拠が付いていないのは困ったものですが、インドネシア(ジャカルタ)のインフレ率の「低さ」の理由が知りたいものです。(太田)
「戦争に負けて、なぜ良かったかといえば、敗戦が軍部の暴走による経済的な負け戦の状況に終止符を打ったという面が大きかった。
・・・昭和11年<(1936年)>には「東京ラプソディ」が大流行し経済も好調だった・・・が、二・二六事件で暗殺された高橋是清の下で実現していた経済合理性に基づく経済発展が再び可能になったのである。
⇒既に、累次記してきたように、経済成長率の推移を見る限り、こんな主張は成り立ちません。(太田)
政党政治も力強く復活した。
⇒英国同様、有事における挙国一致内閣が、平時の到来に伴い、解除された、というだけのことです。(太田)
そして、再構築された良好な日米関係が戦後日本の経済発展の基盤となった。
そもそも、日本には英米と戦わなければならない本質的な理由はなかったのであるが、さきの戦争が軍部の暴走によって引き起こされたことが明らかになると、国民の間からは反英米感情は消滅し、我が国は明治維新以来の親英米路線へと回帰していった。・・・
⇒戦前の日本は、主敵のソ連(赤露)に対しては抑止、その手先たる蒋介石政権に対しては、1937年以降は熱戦を行ったところ、英米は、ソ連とともに、この熱戦において、蒋介石政権側に立って経済・軍事援助ないし軍事力による直接支援を行ったのですから、ソ連、及び、英米、の全てと「戦わなければならない本質的な理由」があったわけであり、松元の言には全く同意できません。
もとより、特定の国と実際に戦うかどうかは、熟慮を要するのであって、当時の日本政府は、ソ連とは戦わず、英米と戦ったところ、私は、このうち、英国とだけ戦うことが最も賢明であった、と、累次、指摘してきたところです。
なお、「さきの戦争が軍部の暴走によって引き起こされた」についてのコメントの必要はありますまい。(太田)
「明治時代の学生の気風を描いた生方敏郎の文章によると、当時の青年はアメリカにあこがれ、アメリカは物質文明ばかりでなく精神文明でもあり、アメリカ人はみな詩人であり信仰の人であるように思って、月が東から出るのを見てその空にあこがれた」のであった(本間長世『アメリカ理解の常識と非常識」東京大学教養学部『教養学部報』第279号)。・・・
⇒明治時代を持ち出しても意味がないのであって、(自身が前の方で触れたところの、)1924年(大正13年)のいわゆる排日移民法
http://news.livedoor.com/article/detail/11613065/
の成立によって、日本人、とりわけ、知識人の間での反米感情は昭和初期から太平洋戦争にかけて高まっていたことにここで触れない松元は、一体何を考えているのでしょうか。
もとより、敗戦を契機に、日本人は反米から親米に大きく振れるわけですが、その原因は、私流の、モード転換論と吉田ドクトリン論でもって説明されるべきだ、というのが私の見解です。(太田)
米国も、戦後の国際情勢が急変する中で、日本との経済的な関係を強化する方針をとった。
米国が第二次世界大戦後に直面したのは、朝鮮半島での戦いであり、中国大陸では米国の門戸開放の思惑に反しての毛沢東政権による門戸閉鎖であり、欧州ではソ連が東欧諸国を取り込んで「鉄のカーテン」を引いたことによる東西対立であった。
⇒細かいようですが、日本は平和を謳歌できたけれど、旧日本帝国領の朝鮮半島は、朝鮮戦争の惨禍、台湾は、蒋介石政権による、虐殺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を含む過酷な統治を経験させられたことを忘れてはなりませんし、いくら米国でも、蒋介石政権を見放し、中国共産党による政権奪取を黙認した時点で、来たるべき新政権が赤露同様にアウタルキー経済を目指すであろうことは覚悟をしていたはずですし、東西対立は、欧州だけではなく、全球的なものでした。(太田)
戦争に負けて、なぜ良かったかといえば、さきの戦争では基本的に賠償が求められず、財政的に見れば我が国にとって負け戦ではなかったことも大きかった。
それは、最大の戦勝国である米国が戦後賠償を求めなかったことによるものであった。・・・
賠償を求めてきたのは、フィリッピン、ヴェトナム、ビルマ、インドネシア<だけ>であった<のです>。・・・
対日無賠償講和を主導したのは米国のダレス国務長官であった。
ダレスは第一次世界大戦では米国陸軍の法務将校として活躍し、ヴェルサイユ会議に参加した外交官であったが、ヴェルサイユ講和条約がドイツに過酷な賠償を課して、結局、第二次世界大戦の原因になってしまったとして対日無賠償講和を主張したのである(『猪木正道『評伝吉田茂』)。・・・
<ちなみに、>対ドイツ賠償は、1953年のロンドン債務協定において東西ドイツ統一後の問題とされたが、1990年の統一に際して、法律的には未解決だがドイツの対外資産の没収や周辺諸国への経済援助などによってもはや解決済みとされた。」(161~162、167)
⇒調べてみる必要がありますが、直感的には、ダレスを持ち出すまでもなく、賠償問題に関して、日本とドイツの扱いを米国が基本的に異なったものにするわけがなかった、と思います。
このことは、英国にもあてはまるはずであり、松元が英国に言及していないのは残念です。(太田)
(続く)
私の現在の事情(続x80)/一財務官僚の先の大戦観(その47)
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