太田述正コラム#0406(2004.7.10)
<韓流・韓国・在日(続x5)>
ウ 根源的な問題点としての両班精神
朝鮮半島(韓国)の根源的な問題点は、両班(やんばん)精神にあり、その両班精神とは、李朝時代の支配階級の精神であって、「文を尊び武を卑しむ気風、激しいイデオロギー闘争、政敵との容赦ない闘い、それに実務軽視・・等々」を特徴としている、と前(コラム#404)に申し上げたところです。
この両班の精神なるものをもう少し敷衍してご説明しましょう。
李朝時代は、いわば日本の律令時代に相当し、朝鮮半島は、日本の貴族に相当する両班による支配が続き、日本のように武士が台頭することはなく、従ってその武士が支配権を握った封建制を経験することもありませんでした(注5)。
(注5)不可逆的変化をとげて「発展」してきた歴史を持つ地域は、世界広しといえどもユーラシア大陸の西端の欧州と東端の日本ぐらいなものだ。これに対し、イギリス(=近代のみ)や李朝末までの朝鮮半島(=古代のみ)等はのっぺらぼうの歴史を持ち、(半植民地化するまでの)中国や(植民地化するまでの)インド等は循環する歴史を持つ。
日本と朝鮮半島の歴史はこのように全く異質なので、特定の時点における両者の「発展」段階を比較することは殆ど意味がないが、強いて言えば、19世紀半ばの時点で、朝鮮半島は日本に比べて約1,000年弱「遅れ」ていたことになろう。
日本の武士とは違って李朝時代の両班は、領地を持つことを許されず、地方長官を転々とさせられました。従って赴任先の領地に対する愛着はなく、科挙に合格するためには詩文のたしなみが全てであったことから、彼らはもともと実務に疎く、実務への意欲も乏しく、赴任中は実務をその地方の世襲の下吏に丸投げし、その下吏と競い合うようにして住民からの収奪に励みました(田中前掲書144??145頁)。
エリートたる両班のこのような精神は、次第に全朝鮮半島の人々の精神を蝕んで行くのです。
李朝による朱子学の国教化も両班の精神に大きな影響を及ぼしました。
儒教の優等生である小華、李朝が、中華(上国)である明への臣従、すなわち明に事大の礼をとること、いわゆる事大主義、が当然視されたのです。その結果、礼にもとる日本は夷狄として蔑まれることになります。いわゆる華夷秩序観です。
ところが李朝は、まず16世紀末に夷狄である日本の侵攻を受け(1592??93年の文禄の役、1597??98年の慶長の役。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9(7月11日アクセス))、大きな被害を受けます。しかし、李朝は明の協力の下、日本の侵攻を何とか持ちこたえます。ところが、17世紀に入ってからは、その明が新興の夷狄、金(後の清)の攻撃を受け、無謀にも明に味方した李朝は、1636年に金に全面降伏し、明との断交と金(清)への臣従を余儀なくされます。
夷狄である日本によって大きな被害を受けたことを、李朝の人々は決して忘れず、そのうらみは李朝末まで維持され、その後の日本による植民地統治という恥辱とあいまって、いまだに韓国の人々の心の中にわだかまっています。
他方、同じく夷狄である金(清)に対しては、日本に対するほどのわだかまりはなかったものの、李朝は面従腹背の崇明排清の姿勢を最後まで貫きます(田中前掲書138??140頁)。
そこへ、17世紀末からは欧米のキリスト教が中国を経由して入ってきたり、さらに19世紀に入ると欧米勢力の黒船が来航してきたりします。キリスト教は、神の前における万人の平等を説く、儒教の華夷観、上下観に真っ向から反する宗教であったことから、欧米は「夷狄」ですらない、それ以下の「禽獣」とみなされることになるのです(同上144頁)(注6)。
(注6)明治維新後の日本は、欧米化することによって、李朝から見れば、「夷狄」が「禽獣」化したことになる(同上146??147頁)。その禽獣化した夷狄たる日本に朝鮮半島が併合された屈辱感は想像を絶するものがある。
こういった観念的で倒錯した国際観もまた、両班から始まって、次第に全朝鮮半島の人々に浸透していき、その結果、19世紀末以降、朝鮮半島に関わった諸外国に多大の迷惑を及ぼすことになるのです。
(続く)