太田述正コラム#8499(2016.7.21)
<階級社会米国(その7)>(2016.11.4公開)
3 終わりに代えて
 その後、この本をメインに、併せて、Carol Andersonの’White Rage: The Unspoken Truth of Our Racial Divide’、及び、Tamara Drautの’Sleeping Giant: How the New Working Class Will Transform America’も扱った書評がFTに掲載された
http://www.ft.com/cms/s/0/d3308b12-49a5-11e6-b387-64ab0a67014c.html
(7月16日アクセス)
ので、そのさわりをご紹介した上で、(今まで、嫌悪感を口にするだけでは意味がないと思い、殆どコメントらしいコメントをしませんでしたが、)できうれば、私のコメントを加える形で、このシリーズを終えたいと思います。
 「<米国では、>多くの諸州が、独立革命から2~3世代後まで、財産を持たない市民達に対して投票権を与えなかった。・・・
 アンドリュー・ジャクソンが興隆した頃から、<そんな>彼らは、ようやく、その影響力を投票によって発揮し始めた。・・・
 <ところで、>武骨な(uncouth)白人達を見下したのは、メイフラワー号子孫総協会(General Society of Mayflower Descendants)<(注10)>だけではなかった。
 (注10)一般にはメイフラワー協会(Mayflower Society)と呼ばれる。1620年に現在のマサチューセッツ州プリマスに到着した102名・・うち、現在、合せて数千万人に達していると思われるところの、子孫がいることが確認されているのは29名・・の乗客達の子孫達の会。プリマスにて1897年創立。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Mayflower_Society
 アフリカ系米国人もそうしたのだ。
 実際、「素寒貧の白いゴミ(po’ white trash)」、という言葉は、奴隷達に起源を有する、と多くの人々が信じている。
 <また、>「南部の貧しい白人(redneck)」<という言葉>は、著者が引用した歌・・「俺は、長い(long)赤っ首(red neck)の白い(white)南部の山岳地帯で育った田舎者(hillbilly)よりか、黒んぼのままでいて耕し回る(plow ole Beck)方がいいや」・・が示しているように、奴隷が生み出したことに間違いはない。・・・
 <こういうわけで、>貧しい白人達とかつての奴隷達の子孫達との間の闘争に言及することなく、米国史を読んだり、2016年の大統領選のなぞ解き(decode)をしたりするのは困難なのだ。
 南北戦争の1世紀後に大統領になった、リンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)は、その政治的諸効果を生き生きと捉えてみせた。
 「仮に君が、最下等の白人の男に、お前は、最上等の有色人種の男よりはマシだと確信させることができりゃ、奴は、君が自分から<金目のものを>掏っていることに気付かんだろう」、とジョンソンは喝破したものだ。
 「つまりだな、奴に見下す誰かを与えさえすりゃあ、奴は君のために財布を空にするだろってことだ」、と。・・・
 <良く知られているように、南北戦争の結果、>解放された奴隷達が、紙の上で勝ち取ったものは、実際には否定されてしまう。
 最高裁判所は、次々に、(奴隷制を廃止し、自由となった人々に市民としての通常の諸権利を与えたところの、)憲法修正13、14、15各条の実質的な内容を骨抜きにしていった。
 これは、評判の悪い、1896年のプレッシー対ファーガソン(Plessey versus Ferguson)<(注11)>判決によって頂点に達した。
 (注11)「<米>最高裁判所<は、>・・・分離すれど平等」の主義のもと、公共施設(特に鉄道)での黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲とした・・・
 1896年5月18日に・・・7対1の賛成多数によって<この>判決は下された。・・・<ずっと>後に1954年のブラウン対教育委員会裁判で最終的に否定され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%AF%BE%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%B3%E8%A3%81%E5%88%A4
 この判決では、ある黒人の男性が、人種分離を強行する黒人差別諸法(Jim Crow laws)に異を唱える法的権利を認めなかった。
 この法廷は、1950年代まで維持されたところの、「分離すれど平等(separate but equal)」的解釈を押し付けたのだった。・・・
(続く)