太田述正コラム#8505(2016.7.24)
<支那は侵略的?(その2)>(2016.11.7公開)
 本題に入ります。
 五百旗頭が言及している、938年のベトナムの独立の少し前と少し後の支那の統一王朝の軍事面がどんなであったかをまず簡単におさらいをしておきましょう。
 一言で言えば、唐(618~907年)は、中央軍が弱体化し、その滅亡がもたらされたのです。
 すなわち、唐の当初の中央軍を成り立たせていたところの、均田制と表裏一体の存在たる徴兵制(府兵制)が均田制の破綻に伴い事実上消滅するに至り、国境防衛のために辺境で藩鎮・募兵制を導入したものの、次第に諸藩鎮が自立色を強めて行き、唐は、分割・滅亡へと向かったのです。(注1)
 
 (注1)「唐における府兵制は成人男子(21歳 – 59歳)を対象に3人に1人の割合で徴兵し、折衝府と呼ばれる部署に集められ、1年に1~1回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6
 「均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告なしでの土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし・・・<た>。
 <そこで、>辺境において・・・藩鎮・募兵制・・・<が>実施され<るに至ったのだが、これは、>府兵制<が>徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。<唐は、>710年<から>・・・719年までに10の藩鎮を設置している。・・・
 安史の乱後は<中央軍を「復活」させるべく、>内地にも藩鎮が置かれた<が遅きに失し、>・・・地方の藩鎮は・・・徐々に自立色を深めていき、最終的には藩鎮により唐は滅ぼされることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
 次に、宋(960~1279年)ですが、これも一言で言えば、唐が辺境の軍の自立化によって滅亡したことを「教訓」とし、募兵制に立脚した大規模な中央軍を維持したのは良しとするも、その中央軍によるクーデタを恐れ、徹底した文官統制下に置くとともに、軍を貶めたため、軍が物の役に余り立たないまま、次第に国勢が衰えて行くのです。(注2)
 (注2)「宋の兵制は<中央軍たる>禁軍<を含め、>基本的に傭兵制(募兵制)で・・・構成された。禁軍は皇帝直属の中央軍として編成され、内地では首都や駐屯地の防衛と治安維持を担い、交代制で外地への出征に備えた。武官の待遇は文官に劣り、また唐末から五代期に頻発した将軍達の軍閥化を警戒するあまり、文官の統制下に置かれ、その容喙<が>多かった。また逃亡を予防する為、兵士の顔には、それまで罪人に課されていた刺青が彫られた為、兵士の社会的地位は著しく低下し「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」と言わしめたという。結果的に、膨大な人数を誇ったが、質的には脆弱で、宋の歴史を通して大きな活躍はできなかった。・・・
 禁軍は北宋中期に82万を数えたものの、<これまた、>唐末の節度使の弊害に鑑み<、>施行された定期的に駐屯地を変更する更戍制により、軍閥化は避けられた反面「将は兵を知らず、兵は将を知らず」と謂われる状況で、当時から意思疎通が計れず臨機応変な対応を執れないと評されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
 さて、このように、それぞれ軍事音痴に等しかったところの、唐末と宋初の間の、しかも、支那が四分五裂状況にあった五大十国時代に、支那からベトナムが失われない方が不思議であった、という気に、誰でもなりますよね。
(続く)