太田述正コラム#8513(2016.7.28)
<支那は侵略的?(その6)>(2016.11.11公開)
 支那のベトナム「侵略」史から見えてくるのは以下のことです。
 (説明が遅くなりましたが、私が侵略に「」を付けてきたのは、この言葉から、否定的ニュアンスを取り去るためです。)
 第一に、「侵略」と言えるのは、秦の始皇帝によるもの・・それはベトナムを主目的とするものではありませんでしたが・・、元のフビライによるもの、そして、明の永楽帝によるもの、の三つですが、最初のは(秦)王朝を滅ぼす原因の一つになり、次のは漢人によるもの、つまりは、支那によるものとは言い難く、また、最後のは、永楽帝の遊牧民的血統によるところの個人的な軍事リテラシーの賜物であった可能性が高く、現に、同帝の逝去後、事実上の次代の皇帝の下で、永楽帝による諸「侵略」の成果は、その大部分が放棄されることになったことから、漢人(支那)によるものとは必ずしも言えない、ということです。
 第二に、漢の武帝による出兵、南漢による出兵、そして、宋(北宋)による出兵は、いずれもベトナム奪還を目的としたものであって、それだけでも「侵略」とは言い難いだけでなく、最初のだけはその目的を達成したものの、そもそも、それはベトナムへ出兵とは言い難かっただけでなく、すんでのところで(漢)王朝を滅ぼす原因の一つになりかねなかったわけですし、次のと最後のとは、どちらも敗戦により目的を達成することさえできなかったのですから、何をかいわんや、です。
 ベトナムに係る以上の2点からだけでも言えそうなことは、漢人(支那)は、軍事音痴であって侵略能力など基本的に持ち合わせていない、ということです。
 軍事音痴の意味ですが、戦術・戦略が不得手である、という意味ももちろんあります。
 漢人は『孫子』という、余りにも有名な戦術・戦略書を紀元前数百年の時点で既に生み出している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
ではないか、とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんが、西方で古代帝国を築いたローマ人も、また、その西半分を蚕食して征服したゲルマン人も、そのゲルマン人の子孫で、世界で最も戦術・戦略に長けているドイツ人や世界で二番目に戦術・戦略に長けているアングロサクソンも(コラム#省略)、碌な戦術・戦略書をものしていないにもかかわらず、戦闘や戦争にはめっぽう強かったですよね。
 (19世紀にもなってから、ようやく、ドイツ人のクラウゼヴィッツが『戦争論』を書き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96
更に遅れてアングロサクソンやできそこないのアングロサクソンたる米国人が戦術・戦略書を書き始めましたが・・。)
 他方、漢人は戦術・戦略が不得手であったからこそ、彼らの間で、その教科書が求められ、もてはやされたのだ、と私は思うのです。
 しかし、軍事リテラシーの高さを主として規定するのは、戦術・戦略の得手・不得手というよりは、(個々の戦闘はともかくとして、)戦争の帰趨を決するところの、軍事素養のある兵士達と兵站・・兵站には兵力量と(輸送力を含む)経済力・技術力が含まれる・・の確保力の高さなのであって、それには、自分の側の経済力を超える規模や期間の戦争をやらない見識も含まれているのです。
 (典拠は機会があれば取り揃えたいところですが、さしあたりは、日米戦争の成り行きを思い出してください。)
 私見では、漢人(支那)は、この点において、とりわけ難のある、「純正」軍事音痴なのです。
 だからこそ、漢人諸王朝は、ベトナムだけをとっても、その「侵略」や侵攻に失敗することが多く、しかも、勝利した場合でも、自王朝を滅ぼしてしまったことが少なくなかった、と私は考えています。
 ではどうして、それにもかかわらず、支那は、現在、過去最大の版図に近い領土大国なのでしょうか?
 人口増の圧力を背景に、漢人達が四囲へ自発的移民を行い、四囲の完全漢人文明化をもたらしたことも銘記されるべきですが、もっぱら、遊牧民系の非漢人諸王朝、すなわち、征服諸王朝(注3)、とりわけ、元と清、就中、清の軍事リテラシーの高さの賜物である、と言ってよいのではないでしょうか。
 (注3)征服王朝(Conquest Dynasty)とは、「<支那>史における用語であり、漢<人>以外の民族によって支配された王朝を総称して、こう呼んでいる。ただし、この語をもって呼ばれるのは、遼・金・元・清の4王朝であり、五胡十六国の諸国や北朝は「浸透王朝」という用語で定義され、征服王朝とは呼ばれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D
 私としては、隋/唐も実質的には浸透王朝であって征服王朝に近いと考えている(注4)ことから、「隋/唐と元と清、就中、清の軍事リテラシーの高さの賜物である」、と、更に踏み込んで言いたいところです。
 (注4)唐(618~907年)は、「唐王朝の<高祖の>李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。・・・
 <李淵の子で二代目の>太宗<李世民>は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。・・・
 唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
 すなわち、漢人化しつつあったがなお軍事リテラシーが相対的に高かった隋/唐は、南北朝時代の末期、相体的に低かった南朝を滅ぼし、元と清は、それぞれ、宋(南宋)と明よりも圧倒的に軍事リテラシーが高かったので、圧倒的な経済力や人口の差をものともせずに漢人王朝の征服に成功し、その都度、漢の武帝の頃の版図ないしはそれ以上にまで「支那」が膨張し、清が、結果的に(外蒙古等を除き)ほぼそのまま中華民国、中華人民共和国へと移行したおかげである、と見るわけです。
3 終わりに
 五百旗頭に限らないのですが、日本の識者達に強く促したいのは、吉田ドクトリンの呪縛から自分達を解放し、戦後に形成され、自分達に、パッケージで注入されているところの、通俗的な米国観、支那観・・支那脅威視を含む・・等に根底から疑いを投げかけることです。
 そうすれば、支那等に係る歴史も、例えば私がこのシリーズで展開したようなもの・・実は私の認識では英米における多数説・・がそうですが、全く異なった様相を帯びてくることでしょう。
 そのためにも推奨したいのは、(まともな将校並の)軍事リテラシーとまでは言わないけれど、せめて(まともな兵士並の)軍事素養を身に付けることです。
 これは歴史知識ならぬ、歴史素養を身に付けることにもつながります。
 歴史知識なんてものは、ウィキペディアが普及した現在、非識者達に対する・・その人達に英語ウィキペディアを読みこなす英語能力があればなおさらですが・・識者達の比較優位など、完全に失われていることに思いを致すべきでしょう。
(完)