太田述正コラム#8521(2016.8.1)
<一財務官僚の先の大戦観(その56)>(2016.11.15公開)
「為替が広く利用される中で、「江戸の金遣い、上方の銀遣い」は、江戸と大阪の間での為替送金に際して為替差益(差損)の問題を生じさせた。
そこで、宝暦13(1763)年には、大阪で金銀の先物を取引する取引所(金銭延売買会所)が設けられて為替相場の変動がヘッジできるようになった。
三井両替商は、月に3回金銀相場の情報を江戸と大阪の間で交換して為替差損(差益)の発生を最小限に留めるようにしていた。・・・
藩の財政赤字は、御用金という形でもファイナンスされていた。
御用金については、薩摩藩の調所広郷<(注112)(コラム#2550)>(1776~1848)が行った500万両にも及ぶ膨大な借金を無利子での250年の分割払いにして実質的に踏み倒した事例が有名である。・・・
(注112)調所笑左衛門。薩摩藩家老。借金「踏み倒し」の後、「大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%89%80%E5%BA%83%E9%83%B7
薩摩藩は分割払いの押しつけに際して、業者に対して外国との密貿易に関する何らかの利益供与をしたのではないかとされている(調所一郎ほか『永久国債の研究』)。・・・
世界に先駆けた大阪の米先物市場<(注113)>(享保15=1730年)が設立されたのも、<以上>のような両替商の活躍する経済の実態を背景にしたものであった。
(注113)堂島米会所(どうじまこめかいしょ)。「享保15年・・・(1730年・・・)大坂堂島に開設された米の取引所。・・・
当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。・・・
江戸時代においては、金貨、銀貨、銅貨(銭)の交換比率が市場に委ねられた変動相場制で、かつ東日本は金が主体だが西日本は銀が主体で貨幣が全国的に統一されていなかった。そのため米が基軸通貨的役割を果たしており、堂島米会所は単なる先物取引市場ではなく、米を仲介しての金銀銅の交換比率を決定する、為替市場としての役割をも担っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80
大阪にそれが設立されたのは、大阪が天下の台所といわれた実力を持っていたからであったが、商人間の取引の99パーセントが手形で決済されていたという金融取引の実態が大阪の米の先物市場創設の背景にあったのである。・・・
江戸時代の大阪における先物市場の発達を見ると、日本人の得意分野は「ものづくり」であり金融取引といった分野は苦手だというのは今日の思い込みにすぎないことがわかる。
金融先物取引所という今日の金融工学が駆使される市場が発足した背景には、江戸時代における和算の発達もあった。・・・
江戸時代に大阪で金融機能が高度に発達した背景には、大阪商人の創意工夫もあったが、やはり基本にあったのは安定した全国的な通貨制度であった。
中央銀行制度がなかったにもかかわらず、江戸時代の通貨制度は総じて安定したものだったのである。
その背景には、幕府が各藩には藩札の発行を許可しながらも自らは祖法として紙幣の発行を行わなかったことがあった。
通貨制度の総元締めの幕府が紙幣を発行しなかったことから、江戸時代には英米で見られたジョン・ロー事件やコンチネンタル紙幣事件のような事件は起こりようもなかった。
幕府は金貨の改鋳を行ったが、米価の安定を極めて重視していたから、それが安易な通貨増発に流れることもなかった。
江戸時代、武士の俸禄が扶持米という形で支給されていたため、米価の安定は国民の大部分を占めていた農民層だけでなく支配層の武士の生活にとっても極めて大きな意味を持っていたのである。」(196、198、200~201、203、208)
⇒松元は、徳川幕府が安定した通貨制度を維持した理由を米価の安定が至上命題だったからだとしていますが、同幕府が、被治者達のための統治を行うのを当然視しており、そもそも、(日本文明とアングロサクソン文明を除いたところの全球的標準と言うべき)苛斂誅求とは無縁の存在であったこと、また、そのこともあって、「鎖国」までして対外戦争とは無縁の国の在り方を追求したこと、そして、内戦とも無縁の元和偃武
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6
体制を構築したこと、そして、これらのことが、被治者達の物理的・経済的負担の一層の軽さをもたらしていたこと、これらこそが、私見では、江戸時代に安定した通貨制度が維持された、より根本的な要因なのです。
更に言えば、(第二次縄文モードの)江戸時代における、通貨制度の安定、紙幣(藩札)の継続的使用、為替や先物市場の活用、等は、12世紀から17世まで(第一次弥生モードの)広義の戦国時代が続いたために、(第一次縄文モードの)平和な時代のままであれば、農業生産力の向上や商工業の発展、そして、人口増、に伴い、本来、もっと早く実現していてしかるべきであったものが、大幅に遅れて実現することになってしまった、と解すべきでしょう。
すなわち、人間主義を基調とする日本は、本来的には、人間(じんかん)の信用に立脚した社会なのであって、個人主義を基調とするイギリスが常に近代社会であり続けてきたとするならば、さしずめ、日本は常に超近代社会であり続けてきた、と言えるのではないか、とさえ私は考えているのです。(太田)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その56)
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