太田述正コラム#8523(2016.8.2)
<一財務官僚の先の大戦観(その57)>(2016.11.16公開)
「260余年にも及んだ江戸時代、江戸時代初期に20匁(1石=150キログラム)だった米価は、おおむね40匁から100匁の間で推移した。
天明の大飢饉のときでも132匁、大塩平八郎の乱の原因となった天保の大飢饉のときでも172匁までしか上がらなかった。・・・関東農政局のホーム・ページ「400年の米価」参照。・・・
幕府が、様々な米価安定策をとったことが、中央銀行という通貨の番人が存在しないにもかかわらず通貨制度に対する人々の信任を確立させ、金貨の流通がほとんど見られない通貨システムを一般化させる背景になったのである。・・・
それは、ハイエクが『貨幣発行自由化論』(195頁)で述べているところによれば、価値基準としての卸売り商品を米とした通過が流通していたようなものであ<り、>・・・米本位制ともいうべき安定的な通貨制度であった。・・・
そして、そのような通貨制度の上に江戸の経済・社会の発展がもたらされ、元禄文化や化政文化などが花開いたのである。
ところが、幕末の安政5(1858)年には、我が国の通貨制度は大混乱に陥ることになる。
それは、日米修好通商条約締結に際して米国総領事ハリスから国際レートの3分の1という不当な金銀交換レートを押しつけられた結果であった。
⇒この交渉には、米領事、後に代理公使、のハリス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9
だけでなく、英総領事、後の公使、のオールコック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF
も、とりわけ、(松元指摘のように1858年の条約締結時ではなく、)1859年に入ってからの幕府との交渉最終場面において、武力行使までちらつかせて、深く関わっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C
http://kousyou.cc/archives/4667
松元の記述は、米国だけを悪者にする歴史の歪曲である、との誹りを免れません。(太田)
不当な交換レートを利用した外国商人(夷人)の鞘取りによって我が国から大量の金が流出し、その代わりに大量の銀が流入してきた。
それは、外国商人の手によって、それまでの金貨が3分の1の品位の銀貨に改鋳されたようなものであった。
その過程で、外国商人は莫大な「貨幣改鋳益(出目<(注114)>)」を懐にした。
(注114)でめ。
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/152494/meaning/m0u/
実は、幕府も遅ればせながら文久3(1863)年には貨幣改鋳を行って出目を歳入にしている。
⇒この話と上記金銀交換レートの話は、直接結びつかないように思われます。(太田)
その結果は狂乱物価の出現であった。
安政5(1858)年に114匁だった米価は、慶応3(1868)年には870匁と8倍にもなって庶民の生活を直撃した。・・・
<ちなみに、>大正の米騒動期でも米価の高騰は、87銭(10キログラム)から3円7銭へと3倍強程度であった。・・・
他方で米価高騰で突然豊かになった農村から繰り出したのが「ええじゃないか」<(注115)(コラム#3935)>のお蔭参りだったと思われる。
(注115)「江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
⇒こんな珍奇な説を唱えているのは松元一人のようですが、そもそも、「ええじゃないか」については、京都、すなわち都会、発祥とする説が多い(上掲)ところ、彼は、「ええじゃないか」を農村発祥と考えた具体的根拠くらいは、少なくとも示すべきでした。(太田)
この時に流出した金は1957万両で、明治元年の通過流通残高の4倍にも上る膨大なものだった。
⇒「海外流出した金の量は最低一万両から最大二千万両まで諸説幅があるが、現在では概ね十万両前後であったと推定されている。」
http://kousyou.cc/archives/4667 前掲
という説もあるわけですが、松元は典拠を挙げていないのに対し、上掲は、典拠として三上隆三『円の誕生 近代貨幣制度の成立』を挙げており、それだけでも、松元の方が誤り、と断ぜざるをえません。
ちなみに、事態の成り行きを見たハリスとオールコックが翻意したため、金流出は、安政6(1859)年6月末から安政7(1860)年2月1日まで、7ヵ月ちょっと続いただけで終わりました。(上掲)
よって、次のくだりは、誇張が過ぎる表現である、ということになります。(太田)
それは、修好通商条約という合法的な衣をまとってはいたが、16世紀のピサロによるインカ帝国の金の略奪を思い起こさせるものだった。
⇒結論である下掲は正しいけれど、「ハイパーインフレは賃金労働者を雇用する大規模経営者に恩恵をもたらし、経済成長をもたらしたが、一方で賃金労働を行う都市下層民や下層農民の生活を著しく困窮させ、経済格差は拡大、社会を一気に不安定化させ<た>」(上掲)といったところが史実に即している、と私は思います。
(「米価高騰で突然豊かになった農村」という松元の記述には疑問符が付く、ということです。)(太田)
幕末、攘夷を叫ぶ勤皇の志士や新選組の活躍の背景には、そのような金流出による経済秩序の大混乱があったのである。」(204~206、209)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その57)
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