太田述正コラム#8525(2016.8.3)
<一財務官僚の先の大戦観(その58)>(2016.11.17公開)
「明治新政府が行った太政官札<(注116)>や民部省札<(注117)>の発行(明治元<(1868)>年)は、徳川幕府の祖法であった紙幣発行の禁を破るものであった。
(注116)「明治政府によって慶応4年5月から明治2年5月まで発行された政府紙幣(不換紙幣)。金札とも呼ばれた。日本初の全国通用紙幣である。通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。1879年(明治12年)11月までに新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E6%9C%AD
(注117)「明治2年11月15日(1869年)から翌年にかけて明治政府の民部省によって発行された政府紙幣(不換紙幣)。・・・太政官札<は、>・・・高額金札ばかりが発行され、1分・1朱がほとんど発行されなかったために、民間の需要に応えることが出来なかった。そのため、民部省によって2分・1分・2朱・1朱、計4種類の紙幣が・・・発行された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%83%A8%E7%9C%81%E6%9C%AD
また、物納だった年貢を金納に改めた地租改正(明治6年)は、江戸幕府の実質的な管理通貨制度の基盤にあった米本位制を廃止したものであった。
そのような江戸時代の通貨制度の基盤が失われた下で発生したのが<明治10(1877)年の>西南戦争後の深刻なインフレであった。・・・
その混乱を収拾するために行われたのが松方正義<(注118)>のデフレ政策であり、中央銀行である日本銀行の創設であった。・・・
(注118)1835~1924年。薩摩藩士。藩校「造士館」に学ぶ。16歳の時から出仕。島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係し、29歳の時、議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員になる。維新後は、別府のある日田県知事等を務めた後、大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 前掲
松方蔵相は、明治15<(1882)>年度予算を対前年度▼176万円の6881万円とするとともに、その後3年間、各省庁の予算額を据え置くという厳しい緊縮財政を行った(ゼロ・シーリング)。
その結果明治17(1884)年には、経済はほとんど恐慌状態となり、企業および銀行倒産が続出した。
デフレ政策下での米価下落は多くの農民の困窮を招き秩父国民党事件<(注119)>などの騒擾事件も起こった。<(注120)>・・・
(注119)秩父事件。「1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した・・・
蜂起の目的は、暴力行為を行わず・・・、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(注120)「繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集積されていった。・・・官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長していったことと相まって、資本家層と労働者層の分離<がもたらされた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%AC
「生糸の国内価格の暴落<には、>・・・1873年から1896年ごろにかけて存続した<欧州>大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響<もあった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
松方正義が・・・並行して行ったのが日本銀行の設立(明治15<(1882)>年)<(注121)>による銀兌換券の発行であった。
(注121)「当時の大蔵卿大隈重信は、<西南戦争後>のインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、本位貨幣である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官である大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。
この対立を憂慮した伊藤博文が松方を内務卿に抜擢するという形で財政部門から切り離して一旦は事態収拾を図った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%AC
その「松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から3つの助言を得る。第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならないこと、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査すること、を勧められた。
その後、帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、[1881年の「明治十四年の政変」で大隈が政府から追放されると、]・・・参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%AC 前掲([]内)
それは、江戸時代末期に我が国の金が大量に流出していた実情を踏まえたものであった。
国際的に金の価格上昇が続いていた中で、金に比べて大幅に減価していた銀の兌換券については、金兌換券のように金貨の海外流出を心配する必要もなかった。
なかったどころか、銀の減価に伴って円安による利益を輸出産業にもたらすことになったのである。」(210、219~221)
(続く)
一財務官僚の先の大戦観(その58)
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