太田述正コラム#8537(2016.8.9)
<一財務官僚の先の大戦観(その63)>(2016.11.23公開)
 「第3代<日銀>総裁の川田小一郎<(注131)>(明治22~29年)は、明治憲法下の日本銀行総裁が時に政府よりも大きな力を持っていたことを象徴する人物であった。
 (注131)1836~96年。土佐藩士。「明治3年(1870年)、藩営の海運業社・九十九商会(後の三菱財閥)の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、・・・社主の岩崎弥太郎を補佐した。・・・弥太郎死後は、新たに三菱を率いた岩崎弥之助を助け・・・た。・・・1889年(明治22年)9月3日、松方正義の推薦で第3代日本銀行総裁に就任。・・・日銀総裁在任中の1896年(明治29年)、京都別邸(高瀬川二条苑)にて急死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E5%B0%8F%E4%B8%80%E9%83%8E (下の[]内も)
 吉野俊彦によれば、川田総裁は日本銀行の長い歴史においても、戦後の一萬田尚登(いちまだひさと)総裁と並んで特筆されるべき人物で、「明治のローマ法王」であった。
 川田総裁は「伊藤、山<縣>等の元老と、殆ど五分の附合をし、渋沢、大倉などを眼下に見下し」「株主総会の日を除きて殆ど一日も銀行に出頭せず、他の重役局長等を日々[牛込の]私邸に招きて行務を指示し、甚しきは大蔵大臣までも私邸に招きて行務を稟議」したのであった(『歴代日本銀行総裁論』)。
 川田は、元々、三菱財閥の謀将として伊藤や山縣と対等の交際をしていたが、日本銀行総裁として大きな力を持つに至ったきっかけは、総裁就任一年後の明治23<(1890)>年に発生した我が国最初の資本主義的な不況<(注132)>に際して、思い切った救済融資を行い経済界の信頼を得たことであった。
 (注132)「日本における恐慌の歴史は資本主義の確立とともに始まる。1881年以降の大蔵卿松方正義の財政政策(松方財政)による経済不況はもちろん,86年以降の資本家的企業の勃興の反動として生じた90年の恐慌(明治23年恐慌)もまだ言葉の本来の意味での恐慌(資本主義的恐慌)ではなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB23%E5%B9%B4%E6%81%90%E6%85%8C-1425882
が通説らしい以上、松元は、「資本主義的な不況」の定義を行った上で明治23年恐慌がそれにあたることを説明する必要があった。
 要は、「我が国最初の資本主義的な」という文言など余計だったのだ。
 それは、株式を担保にして金融機関手持ちの手形を割り引くというもので(担保品付手形割引)<(注133)>、当時の日本銀行条例上に明記されたものではなかったが、それを川田総裁が断行したのである。
 (注133)special discounting facilities。「国債以外の有価証券を担保とする手形割引。この方法が日銀定款で禁止されていたので,このような名称が用いられた。その後見返品制度などと名称を変え,日銀法施行まで,大いに利用された。」
https://wikimatome.org/wiki/%E6%8B%85%E4%BF%9D%E5%93%81%E4%BB%98%E6%89%8B%E5%BD%A2%E5%89%B2%E5%BC%95%E5%88%B6%E5%BA%A6
 担保品付手形割引制度は、その後、明治30年の金本位制導入に際して条件を厳しくした見返品付手形割引制度に手直しされ、日本銀行による産業界救済の切り札として存続していくことになる。
 政府に対する川田の力は、明治27年の日清戦争でさらに高まった。
 日清戦争当時、日本の信用力は諸外国から外債で戦費を調達できるような状況には無く、かといって市中銀行の預金残高も1億円そこそこで、2億円にも上った日清戦争の戦費を賄うことは至難の業と考えられていた。
 そのような状況の下、総理大臣だった伊藤博文は、京都の私邸に川田総裁を訪ねて戦費調達を懇願した。
 それに応える形で川田総裁が行ったのが、まず日本銀行が戦費に必要な資金の貸付を行い、それによって市中銀行の預金が増大したところで後から国債を公募して消化させるという手法であった。<(注134)>
 (注134)「日清戦争<の>・・・戦費は、2億3,340万円(内訳:臨時軍事費特別会計支出2億48万円、一般会計の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計歳出決算額8,458万円の2.76倍に相当した。・・・臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が公債金(内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の国庫剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の日本銀行をふくむ全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。」
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89_%E6%88%A6%E8%B2%BB%E3%81%A8%E5%8B%95%E5%93%A1
⇒私が前述したように、英・欧において中央銀行が生まれた理由は戦費調達のためだったのですから、日清戦争の際、日本銀行(の総裁)が、この本来業務の遂行に尽力した、というだけのことです。(太田)
 その手法は、後に高橋是清が行った日銀の直接引き受け、すなわち、先ず日本銀行に国債を直接引き受けさせて、後から売りオペレーションで市中に売却すると言う手法と後先が異なるだけで、原理的にはなんら変わりのないものであった。」(239~240)
(続く)