太田述正コラム#8551(2016.8.16)
<一財務官僚の先の大戦観(その70)>(2016.11.30公開)
3 落穂ひろい・・「終わりに」に代えて
「蒋介石が日本の降伏直後、ラジオで「怨みに報いるに徳をもってせよ」と呼びかけ、中国全土で降伏した200数十万の日本軍兵士のほぼ全員を祖国へ復員させたことは、捕虜の虐待が目立った当時としては画期的なことであった。」(32~33)
⇒松元は、何の疑いも抱かずこう記していますが、日支戦争中の「1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした・・・黄河決壊」の支那人溺死者は89万人とも言われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ところ、この挿話だけとっても自国の一般住民の人命すら尊重しなかったと思われる蒋介石が、どうしてこうも日本軍兵士に対しては利他的対処を行ったのかを追求する感受性が、彼には欠如しているようです。
少しでも追求しておれば、「恨みに報いるに徳をもってせよ」(元々のフレーズは「怨みに報いるに徳を以てす」)にそんな利他的な意味はなかったことが分かり、一層疑問が募るはずなのに・・。
それは、こういうことです。
元々のフレーズは、それが「『論語』と『老子』の両者に引かれているところからみて、古代にはかなり普及していた一句なのであろう<が>、この句に対する、『論語』すなわち儒家と、『老子』すなわち道家との考え方は、全く正反対であ<って、>儒家はこの考え方を否定し、是々非々の合理的考え方を主張しているのに対し、道家はもっとおおらかな、決して人生で無理をしない伸び伸びした考え方として、こうして生き方を許容している」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2007/11/19/%E3%80%90%E4%BB%8A%E9%80%B1%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%96%E3%80%91%E6%80%A8%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%A0%B1%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AB%E2%80%A6/
ところ、『老子』におけるこのフレーズ「の文脈から読み取れるのは、人道主義や寛容の精神ではなく、小大、小多、怨徳といった区別、こだわりを捨てよという世捨て人のニヒリズム」であり、要するに、利他主義ないし人間主義とは無縁なのです。
(これは、支那の伝統的な、タテマエのイデオロギーたる儒教にも、ホンネのイデオロギーたる道教にも、利他主義的ないし人間主義的発想がない可能性を示唆するものです。)
自称敬虔なキリスト教徒であった当時の蒋介石としては、利他主義を基本とする新約聖書に出てくる「右の頬をうたれれば左の頬を出せ」といったフレーズを使用したかったところなのでしょうが、大部分が非キリスト教徒である支那人民相手ではそうも行かず、その代わりに、表見的には似通っている上出の「伝統的」フレーズを「流用」したのでしょう。
となると、蒋介石による、彼自身の物の考え方や彼の国の伝統とは無縁であるところの、日本軍兵士に対する人道的対処は、よほど切迫した必要性に迫られたものであった可能性が大である、ということにならざるをえないでしょうね。
その切迫した必要性が一体何であったのか、までは、ご想像にお任せすることとし、ここでは詮索しませんが・・。(太田)
「昭和16<(1941)>年12月、真珠湾攻撃で対米戦争が始まると、統制は究極的なものになっていった。
昭和17年5月には、金融統制会が設立され、民間における資金の吸収、運用、金利等が全面的に統制されることになった。
昭和18年10月には軍需会社法が公布され、昭和19年1月からは軍需会社が特定の金融機関から融資を受けられる仕組みが導入された(軍需会社指定金融機関制度)。・・・
この制度が、戦後のメインバンク制度になっていったとされている(小林英夫『満鉄が生んだ日本型経済システム』)。」(126~127、144~145)
⇒日本型政治経済体制の構築・深化は、終戦直前まで続いた、ということを押さえておきましょう。(太田)
「増配の規制<(コラム#8434)>は、元々、昭和13年の国家総動員法(第11条)に規定されていたが、経済界から強い反発があり、当時の蔵相だった池田成彬がその発動に消極的だったものであった。
経済界は、昭和15年10月に発表された「経済新体制確立要綱」も赤化思想の表れだとして反発した。
そのような反発を背景として昭和16年には同要綱策定に携わった企画院の調査官などが治安維持法違反で検挙された企画院事件<(注148)(コラム#8422)>が発生した。」(144)
(注148)「1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒政界に比して、財界の、(アングロサクソン文明から継受された議院内閣制や資本主義の機能不全に反発する)民意、及び(戦時が深化する)時世、とのギャップの解消・・日本型政治経済体制の構築・深化・・が更に遅れた、ということを改めて確認しておきましょう。(太田)
(完)
一財務官僚の先の大戦観(その70)
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