太田述正コラム#8559(2016.8.20)
<欧米史の転換点としての17世紀?(その4)>(2016.12.4公開)
「グレイリングは問いかける。
「天才達が咲き乱れたこと、と、かかる紛争群による損耗、とが共存したことをどう説明したらよいのか」、と。
非現実的なまでに楽観的であるという印象を与える危険を冒し、彼は、古い諺であるところの、「誰の得にもならない風は吹かない(It’s an ill wind that blows no<body any> good)」、を二度援用する。
彼は、挫傷した気難しい諸時代は、意図せざる形であれ(if inadvertently)、変化を促す、と主張する。
この世紀の諸戦争や諸騒動は、人々と諸観念の諸動きをコントロールするところの、諸システムが瓦解した中での知的進歩を可能にした、と彼は主張する。
彼が譬えとして持ち出するのは、戦争の際に放棄される境界検問所群であり、人々は、隣接する諸地域へと、邪魔されることなく、また、監視されることなく、境界を越えて行けるようになる、と。
彼は、内戦と対外戦争がイギリスに、より大きな自由の興隆をもたらし、その中から、リベラルで世俗的な「近代的思考傾向(mindset)」が生まれた、と結論付ける。
⇒イギリスには、大昔から、「リベラルで世俗的な「近代的思考傾向(mindset)」が」あり、欧州諸国・諸地域に比べて「より大きな自由」があった、が正しいことをグレイリングは当然知っていて、なおかつ、こういう韜晦した言い回しをしているのです。(太田)
グレイリングの物語(narrative)の核心にあるところの、物の見方(mentality)の遷移(transformation)、を図示(illustrate)するため、彼は、1606年のホワイトホール宮殿(Whitehall)<(注11)(コラム#3549)>の宴会会場(Banqueting Hall)<(注12)>でのマクベス(Macbeth)の初演の観衆の諸態度と、1649年に同じ場所でチャールズ1世の断頭刑を見物するために集まった群衆、とを対照させる。
(注11)1530年からロンドン大火で大部分が破壊される1698年までの、英歴代国王の本邸。
https://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Whitehall
(注12)Banqueting House。ロンドン大火で破壊されなかった、ホワイトホール宮殿内の唯一の建物。宴会会場はその内部。多様な目的に使用された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Banqueting_House,_Whitehall
マクベスでは、国王の殺害について、それが極めて自然秩序転覆的(subversive)なものであって、そのため、その後、馬達は互いに喰らい合い、梟達は隼達を襲って殺した、と描写されている。
⇒これはシェークスピアが、当時の社会通念をそのまま描写したのではなく、史実においてもマクベスに殺害されたところの、「バンクォーを祖と考えるステュアート家のスコットランド王ジェームズ6世が1603年に<イギリス>の王位を継承(ジェームズ1世)した」、という背景の下で、恐らくはその直後の1606年に、「実際のマクベスは17年間の長期にわたって王位にあり、また当時は下剋上がしばしば見られる時代であって、マクベスの行為も悪行とは言えず、統治の実績もあ」ったとにもかかわらず、あえて、史実を枉げて、マクベスを、「主君を殺して王位を奪い、暴政を行って短期間でその報いを受けて滅ぼされる悪人として描」いたものであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%99%E3%82%B9_(%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2)
馬だの梟だのは、単に、シェークスピアによるジェームズ1世へのゴマスリ目的の記述であった、と見るべきでしょう。
(国王へのゴマスリは必要でした。というのも、国王≒英国教会、に反発する、ピューリタン達、はかねてより演劇反対運動を展開しており、「1576年に・・・ロンドン市内に常設劇場を建設しようと<いう>計画<があった>際に、ピューリタン派であったロンドン市参事会側が、これに許可を与えなかった」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1468745589
ようなことがあり、シェークスピアの時代直後のイギリス内戦期・・ピューリタン勢力が大きな役割を果たした・・には、実に、演劇が全面禁止されるに至っている(上掲)からです。(太田)
なお、グレイリンクは、マクベスの初演はホワイトホール宮殿、と断定的に書いているようですが、「執筆と同じく初演も1606年ごろと推定されており、ジェームズ1世の義弟に当たるデンマーク王クリスチャン4世が1606年の7月から8月にかけてロンドンを訪問した際に行われた宮中での観劇会において本作が上演された可能性も推測されているが、現存している最古の上演記録は1611年4月に・・・グローブ座で観劇したというものである」(上掲)、というのが、本当のところです。
その43年後、グレイリングは、同じ観衆で自分達自身の国王が断頭されるのを見物した者がいたかもしれない、と想像を巡らせる。
彼は、マクベスで前提とされていたところの、王座の聖性なる観念は、イギリス内戦の頃までには、政治的権威の行使の性格についての新しい諸観念への好意によって拒否されるに至っていた、と主張する。
それが、(イギリスにおいては、少なくとも、議会が国王を退位させ自分で選んだ代わりの人物をその後に据えたところの、1688年の「名誉革命」の時に行われた)恒久的解決(permanent settlement)の実地性(practicality)へと完全に翻訳されるには、更なる数世代を要したけれど、その違いは既に<17世紀央にはイギリスで>感知できていた(palpable)のだ、と。・・・
⇒イギリスでは、実はこの点に関し、基本的に何も変わっていないことについても、グレイリングは周知しているはずであるところ、ここでもこのように韜晦した言い回しを、彼はあえてしているのです。
大昔から議会主権国であり続けてきたイギリスでは、国王を任命することはもちろんですが、観念の上では、クビにすることも、死刑に処する形でクビにすることも含め、議会が、その権能上、行うことができたからです。
(1215年のマグナカルタは、議会が、上記の観念を国王に再確認させた上でジョン王に署名させたもの、と受け止めるべきなのです。)
17世紀央に至るまで、英国王が(国王僭称者による「処刑」ではなく)議会によって処刑されたことがなかったのは、歴史の偶然に過ぎなかった、すなわち、それまでの歴代国王のデキが処刑されるほど悪くはなかった、ということなのです。(太田)
グレイリングによる、17世紀に、イギリスの政府がどのように進歩したか、それに対し、フランスの政府がいかに退歩したか、の説明ぶりは、殆ど<彼を>対外強硬主義者と言ってもいいくらいだ。
ルイ14世(Louis XIV)の絶対王政がフランスに偉大な威信と力をもたらしたことは認めるも、彼は、「絶対主義の究極的なコストはフランス革命であり、ルイ14世は、いわゆる聖なる権利によって統治した最後の偉大なる専制君主と見なされるべきかもしれない」、と彼は主張する。
革命フランスを乗っ取った恐怖政治(Terror)は、グレイリングによれば、ルイ14世の絶対主義のもう一つの長期的帰結だったのだ。」(F)
⇒こういう箇所に、グレイリングのホンネとしての、イギリス文明と欧州文明の異質性認識、より端的に言えば、欧州文明への侮蔑意識、が滲み出てしまっています。
(彼のホンネは、イギリスの政府の方が、フランス等、欧州の諸政府より、歴史を通じて、一貫して上等であり続けてきた、であるはずです。)(太田)
(続く)
欧米史の転換点としての17世紀?(その4)
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