太田述正コラム#8575(2016.8.28)
<チーム・スターリン(その4)>(2016.12.12公開)
自分の仲間達を拷問してから射殺する(か自殺に追い込む)のとは別に、スターリンは、生かしておいた方がよいと彼が思ったところの、詩人達、音楽家達、科学者達、そして、閣僚(minister)達をコントロールするためのもう一つの方法論(method)を持っていた。
彼らの血縁者達のうちの一人を人質にとることだ。
かくして、国家元首の・・・カリーニンは、カザフスタンの公衆浴場で、何十年も囚人達のシラミ取りをして過ごした妻を持ったのだ。
彼女は、イスラエル大使のゴルダ・メイヤー(Golda Meir)を大仰に接遇した後、強制労働収容所に送り込まれた。
時には、このチームは、スターリンの諸出方を予見した。
で、カガノーヴィチは、彼の兄を自殺させた。
ニコライ・<イヴァーノヴィチ・>エジョフ(Nikolai Ezhov)<(注21)>は、同じことを自分の妻にやった。
(注21)1895~1940年。サンクトペテルブルクのロシア人家庭に生まれ、無学歴のまま、第一次世界大戦で帝政ロシア軍勤務、十月革命前にボリシェヴィキ入党、内戦で活躍。「1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表し<、>これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として・・・内務人民委員(内務大臣)・・・となった。・・・1938年・・・[自分の失脚が近いことを自覚したエジョフは、自分の子飼いのウクライナ秘密警察の長に警告を発して逃亡を促し、かつ、]妻・・・に離婚話を切り出した。絶望した彼女はスターリンに手紙でこのことを訴えたが、スターリンから返事はもらえなかった。この一方、彼女には多数の愛人がいることが判明し、この事実は彼女の立場を危うくすることになった。数か月以内に彼らは逮捕され、1938年エフゲジーナは睡眠薬の多量服用により自殺を図った。・・・<その>11月・・・にはベリヤが内務人民委員に就任した。1939年・・・エジョフは・・・全官職を解任され・・・逮捕、銃殺された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%95
(この日本語ウィキペディアは、ほぼ全部が英語ウィキペディアの直訳だが、妻の自殺のくだりだけ(?)、冒頭に、英語版・・このくだりの出来は余りよろしくない・・にはない、「家庭生活においては夫婦仲は冷え込み、」を挿入しているため、そのくだり全体の意味が通らなくなってしまっている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikolai_Yezhov )
スターリンの彼の閣僚達のコントロールぶりは、支那の西太后(Tzu-Hsi=Cixi)が彼女の閣僚達がそれぞれの性器をガラスの瓶(jar)に入れて検閲に出さなければならなかったことに似ている。<(注22)>・・・
(注22)当時は宦官がいた・・それどころか、1940年代まで、性器を切除する商売があったらしいし、切除した者が防腐処理された自分の性器をガラスの瓶に入れて保管する習慣も続いたらしい・・
http://ksj.ayashiki.net/toukou.php?mode=view&id=1136814455
が、「清代には・・・宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、宦官が国政に口を出す余地はほとんど無くなっていた。」ので、閣僚クラスの官吏が宦官であることはありえず、あたかも、殆どの閣僚クラスの官吏が宦官であったかのような、フィッツパトリックないしは書評子の書きぶりはおかしい。
また、清代に限らず、「切り取られた性器は「宝」と称され大切に保管され、・・・昇進に際しては宦官であることを証明するための「検宝」と称される作業があった」ようだが、あたかも、西太后だけが「検宝」を行ったかのような書きぶりもおかしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A6%E5%AE%98#.E4.B8.AD.E5.9B.BD (「」内)
⇒支那人自身が、根も葉もない話でもって西太后を、死後、極悪女に仕立て上げた責任がある・・彼女の史実としての残虐さの挿話は、「1900年に起こった「義和団の乱」で第11代皇帝・光諸帝(こうしょてい)の側室であった珍妃を、生きたまま井戸に投げ落として殺した」ことくらい・・わけです
http://rekijin.com/?p=12720
が、こういったおかしな話がガーディアンの校閲陣の目を潜り抜けて堂々と紙面に載ってしまうところに、イギリス人も、依然として、欧米を覆うオリエンタリズムの悪しき影響下にあること、を改めて感じます。(太田)
・・・フルシチェフの下でも、(投機や労働活動を理由とするものだったが、)諸処刑は減らなかった。
急進的な方針転換を試みた唯一のチームの成員は、殺人者達の中で最も悪漢だった・・・ベリヤだった。
彼が権力の座にあった、1953年3月から6月までの100日間<(注23)>、処刑は行われず、この精力に関心ある(priapic)サディストを早過ぎるゴルバチェフ(Gorbachev)たらしめたところの、諸改革を提案しただけだった。
(注23)「スターリンの死後、ベリヤは、第一副首相に<なっ>・・・た。彼の同盟者マレンコフは新たに首相となり、ポストスターリン指導体制下における最高実力者となった。当時ベリヤは・・・ナンバー2であったが、マレンコフの指導力の欠如もあり、実質的にベリヤが最高指導者の地位にあった。フルシチョフは党書記となったが、首相職より重要性の低い地位とみなされた。<そして、>・・・ベリヤは<ソ連の>自由化の最前線に立った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4 前掲
だからこそ、チームは、彼を射殺した。・・・
強制労働収容所群中最悪のコルィマ(Kolyma)<(コラム#6855)>で20年間を過ごし、自分の地獄での滞在について書くことができたごく少数の人々のうちの一人であった、ヴァルラーム・<チホノヴィチ・>シャラーモフ(Varlam Shalamov)<(注24)>は、ロシア人の性格の最悪の側面は、知識人達、芸術家達、そして科学者達の場合にはそれだけの理由があるのだが、碌に読み書きのできない(semi-literate)秘密警察の長官なる暴虐な人物と対峙した時、いつも、無批判的に諂ったことだ、と断定(decide)している。」(A)
(注24)1907~1982年。ロシア北西部に聖職者の家庭に生まれ、そのこともあって革命後苦学してモスクワ大法学部卒。トロツキストというレッテルを貼られ、何度もコルィマを含む強制労働収容所行きを経験。代表作の連作短編「コルィマ物語」で知られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%95
⇒いくら、シャラーモフによる記述の引用だとはいえ、このくだりは、イギリス人、というか、欧米人にとっては、旧ロシア帝国人は、たとえ白人といえども、オリエンタリズムの対象なのかもしれない、という疑念を生じさせます。(太田)
(続く)
チーム・スターリン(その4)
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