太田述正コラム#8579(2016.8.30)
<チーム・スターリン(その6)>(2016.12.14公開)
「グレイト・ブレイク(The Great Break)」<(注26)>において、スターリンは、新経済政策(New Economic Policy)<(注27)>を廃棄し、富農(kulak)達を攻撃し、集団化を導入し、信用できぬ「ブルジョワ専門家達」を批判するキャンペーン、を行った。
(注26)スターリン主導で、1928~29年に、ソ連で、ネップ(新経済政策)から集団化・工業化政策への大転換が行われたもの。
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Break_(USSR)
(注27)Novaya Ekonomicheskaya Politika。レーニン主導で、ソ連で、戦時共産主義(War Communism)に代わって、1921年からグレイト・ブレイクまで行われた経済政策。国が銀行、貿易、大企業のコントロールを続けるが、個人が中小企業を所有することを認められ、農民は徴発に代えて農産品で支払うことができる税金を課されることになった。レーニンは、これを国家資本主義と呼んだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/New_Economic_Policy
⇒島田洋一の中共現体制ファシズム論(コラム#8578)に対する一番簡単な反論は、それがちょっと長引いてるネップだ、というものです。
そうじゃないのでこの話は書かなかったが、そう指摘されたら、島田はどう答えるのか、ちょっと興味があります。(太田)
これは、「右派(Rightists)」との衝突(falling out)を伴ったが、それまでチームの成員だったり近しい友人だったりした人々をを粛清することになったため、このチームにとっては、個人レベルでは悩ましいこと(difficult)だった。・・・
チームの成員の大部分は大粛清を生き延びた。
キーロフの殺害は、彼らに心の準備をさせる(initiate)のを助け、1936年にオルジョニキーゼはスターリンと口論した後自殺した。
しかし、彼ら自身と彼らの家族の成員達の多くが危険に晒されており、彼らの友人達や近しい同僚達が粛清されたり時には殺害されたりした。
彼らは共同正犯者達であると同時に潜在的犠牲者達だった。
モロトフとカガノーヴィチが、この期間中、スターリンに最も近しかったように見える。
そして、チームの観点からすると、この諸粛清の容赦なさの<よってきたるゆえんについて、>一つの説明が提供される。
すなわち、チームは、スターリンにとって、彼の革命への献身(commitment)とボルシェヴィキ的不屈さ(touchness)を見せびらかす<相手たる>観客を提供したのかもしれない<、と>。
彼が、自分自身の家族や友達を犠牲にすることを厭わなかったのは、彼らに対して範例を示す必要があったのかもしれない<、というわけだ>。
第二次世界大戦は、チームの頂点(high point)だった。
当時、スターリンによる<ヒットラーが独ソ戦を仕掛けてくることはありえないとの>当初の誤算と戦争遂行上の諸必要性が、国家防衛委員会(State Defense Committee =GKO)<(注28)>による統治(government)をもたらしていた。
(注28)ソ連国家防衛委員会([Gosudarstvennyj komitet oborony])。「独ソ戦期のソビエト連邦における臨時の上級機関であり、国家における全ての権力を保持していた。・・・委員会は1941年6月30日から1945年9月4日まで存在し、ヨシフ・スターリンが議長を務めた。初めはラヴレンチー・ベリヤ、クリメント・ヴォロシーロフ(1944年まで)、ゲオルギー・マレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ(議長代理)で構成された。1942年からは、ニコライ・ヴォズネセンスキー、ラーザリ・カガノーヴィチ、アナスタス・ミコヤンが参加し、1944年にニコライ・ブルガーニンが加わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
https://en.wikipedia.org/wiki/State_Defense_Committee ([]内)
チームは、ソ連の生き延びと戦争勝利への道行き、に関し、枢要な役割を演じた。
彼らの公的訓練の欠如・・何人かは高校すら出ていなかった(lacked even a full school education)・・にもかかわらず、この時までには、彼らは相当の管理諸技量(skills)と専門知識を身に付けていた。
「GKO内における部分的に公的な分業の中で、スターリンは軍事面を担当し、残りの成員達は経済を担当した。
(経済面での実績(performance)は、歴史学者達の意見では、驚くほど良く、軍事面よりも良かった。)
マレンコフ、ベリヤ、ミコヤンは、モロトフと共に、GKOの運用上の指導部を形成した。
ミコヤンは、いつも通り、赤軍のそれを含め、供給部門を運営し、後には武器製造部門も運営した。
彼はまた、依然として貿易省の長でもあり、米国と英国からの武器貸与法(lend-lease)調達(deliveries)を監督した。
これは、運用効果性と権力の中心への近さにおいて、彼の職歴における諸頂点の一つだった。
戦車生産、航空機生産、そして原子力の各産業は、異なった時期において、モロトフ、マレンコフ、そして、ベリヤがそれぞれ担当したが、戦争中は、べリヤがより大きな諸責任を負う傾向があった。
計画部門は、急速に上昇しつつあった、スターリンの新しいお気に入りのニコライ・<アレクセーエヴィチ・>ヴォズネセンスキー(Nikolai Voznesensky)<(注29)>の下にあった。・・・
(注29)1903~49年。「第二次世界大戦[前の1938年から]ゴスプラン(国家計画委員会)の仕事を監督した。1940年5月、・・・38歳の若さで人民委員会議副議長(副首相)に任命された。戦争開始当初において産業の東方移転にともなう生産の回復に直接関わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%BA%E3%83%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
ロシア人の(?)職工長(foreman)の息子としてモスクワ南方のトゥーラ(Tula)で生まれた。マレンコフ及びベリヤとの個人的確執が原因で、庇護者のジダーノフが1948年9月に亡くなると運が尽き、やがて、でっちあげの嫌疑で逮捕され裁判にかけられ処刑された。
https://www2.warwick.ac.uk/fac/soc/economics/staff/mharrison/public/voznesensky2003.pdf
モスクワのスヴェルドルフ共産主義大学(Sverdlov Communist University)卒、赤色教授大学で学び、教鞭を執る。
https://books.google.co.jp/books?id=q2RF5YGDZAsC&pg=PA224&lpg=PA224&dq=Nikolai+Alekseevich+Voznesensky&source=bl&ots=Iu2NvFBP3w&sig=EYp_lpaZfHUzQD5UeA6Y7I1A8aQ&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwifhriu7ujOAhUFKZQKHTaYAssQ6AEIYzAJ#v=onepage&q=Nikolai%20Alekseevich%20Voznesensky&f=false
ちなみに、ジダーノフ(Zhdanov=Andrei Aleksandrovich Zhdanov。1896~1948年)は、ウクライナ東部のマリウポリ(Mariupol)でロシア人家庭に(?)生まれ、無学歴、
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803133445559
「第二次大戦でレニングラード防衛を成功させた。戦後はスターリン主義の理論家としてイデオロギー批判の先頭に立って知識人らを抑圧した。」
http://www.weblio.jp/content/Andrei+Aleksandrovich+Zhdanov
という人物だ。
スターリンのエネルギーと能力が減退するにつれ、彼は、次第に多くの仕事をチームの他の成員達に委ねるようになり、ついには、彼らが決定事項を別荘にいる彼に署名を求めて送ってくると常にその場で署名するようになってしまった。
<こうして、>スターリンの判断は、次第に間違いの多いものになって行った。」(D)
⇒どうやら、独ソ戦におけるソ連の勝利は、当時のソ連首脳陣中、唯一の高度な知識人であり、それ故にこそ、マレンコフやベリヤとそりが合わずに戦後殺されることになった、ヴォズネセンスキーに、主として帰せしめられそうですね。
彼を庇護したジダーノフ、そして、最晩年を除き、彼がお気に入りだったスターリン、の眼力は、どちらも、なかなかのものでした。(太田)
(続く)
チーム・スターリン(その6)
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