太田述正コラム#8589(2016.9.4)
<スターリンの死とそれがもたらしたもの(その2)>(2016.12.19公開)
 (2)スターリンの死
 「<著者>は、彼の本を、この暴君の、その3月1日のひどい脳卒中から実際に亡くなる5日の間の詳細な描写から始める。
 この物語は一般によく知られているが、様々な説明に基づき、改めて詳細に伝えられるのはいいことだ。
 それは、異様な物語でもあった。
 スターリンは、恐らくは世界中で最も権力を持った男だったが、暗殺されることを非常に恐れていたので、どこに行く時でも何重もの安全を確保したのであり、特定の別荘においても、どこで寝ているか誰にも分からないように、寝室を取り換えたものだ。
 しかし、それが現実に確保したものは、脳卒中<(注4)>の後で彼が得たであろう助けから彼が安全に守られるという状況だったのだ。」(D)
 (注4)スターリン暗殺説が有力視されつつあるので、紹介しておく。
 モロトフ回顧録(出版1993年)には、ベリヤが、モロトフに「オレが奴をやった」と毒殺したことを自慢したと記されている。
 消化器からの出血(stomach hemorrhage)は通常高血圧が原因ではないが、抗凝血性剤であるウルファリン(warfarin)の過剰摂取は、脳卒中と消化器からの出血を引き起こす。
 スターリンの治療にあたった医師団によって、1953年7月に党中央委に提出された最終報告書は、消化器からの出血への言及は削除されたかほんの少ししか言及されなかった。
 2004年に米国の歴史学者とロシアのソ連時代に抑圧された人々の名誉回復のための大統領委員会(Presidential Commission for the Rehabilitation of Repressed Persons)事務局長(executive secretary)の共著が出、ベリヤがフルシチェフと共謀してウルファリンをスターリンのワインに、スターリンが倒れた日に入れたと思われる、とした。
 ソ連保健省が行ったスターリンの解剖記録が2011年に公開されたが、死の原因は高血圧による脳卒中であり、高血圧は(通常引き起こさないはずの)(胃の)噴門と胃腸の出血も引き起こした、とある。
 これは、解剖医達が、ウルファリンによる毒殺だと気付きつつ、後世に、自分達を守りつつ、その手掛かりを残したものである、と考えられている。
 (このほか、スターリンは、やはり高血圧が通常引き起こさないところの、肛門出血をしていた、という情報もある。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Stalin#Suggestions_of_assassination
⇒どうやら、スターリンは毒殺されたようですが、その前に自殺したヒットラー、及び、その後に自然死を遂げた毛沢東、に比べ、原因も、また、死へのプロセスにおいても、彼は、最も悲惨な最期を迎えた、と言えそうです。(太田)
 「<場所は、>モスクワ郊外<の別荘>においてだった。」(F)
 「スターリンは、1953年のプリム祭(Prim)<(注5)>の日に死んだ。・・・
 (注5)プーリーム。「<旧約聖書の>「エステル記」に記されている<話にちなむ>。紀元前586年、エルサレムはバビロニアに滅ぼされ、ユダヤ人の多くは「捕囚」となり、バビロニア各地へ強制移住させられた(バビロン捕囚)。ついでユダヤ人は、バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシャの支配を受けた。・・・ペルシャ王アハシュエロスの高官であったハマンはユダヤ人の虐殺を企てた。しかしこの企みは、ユダヤ人を守ろうとする神の意志をうけたエステルおよびモルデカイによって阻まれた。ユダヤ人たちは難を逃れただけでなく、王により、敵対勢力を打倒する許しを得た。戦いが終わった日はのちに祝日とされ、宴を催し、この故事を祝う日となった。・・・春を間近に控えた季節の祭りである<が、>・・・太陽暦から見ると、移動祝日となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0
 <時あたかも、>大合唱聖歌隊シナゴーグ(Great Choral Synagogue)では、モスクワの首席ラビが、スターリンの長寿を祈念するための丸一日の断食と祈祷を呼びかけていた。・・・
 スターリンが亡くなると数日以内に、諸事が変わり始めた。
 モロトフのユダヤ人妻は流刑から戻らされたし、医師達は<死んだ者を除き>牢獄から解放された。
 リヴィウ(Lvov)<(コラム#3818、7305)>の18歳のユダヤ人学生がスターリン追悼式<(注6)の最中に「彼を朽ち果て(rot)させよ」と呟いたことで10年の刑を宣告されていたが、彼女もまた自由になった。
 (注6)「150万人が公式訪問してから、スターリンの防腐保存された遺体は1953年3月9日にレーニン廟に安置された。1961年10月31日に、この遺体は廟から撤去され、非スターリン化の過程の一部として、クレムリンの壁に隣接するクレムリンの壁墓地(Kremlin Wall Necropolis)に埋葬された。
 中共政府は、スターリンの死に対して一定期間、公式に喪に服す旨定めた。毛沢東は半旗にすることを命じ、3日間にわたって娯楽を禁じた。彼はまた、スターリンを「偉大な指導者、マルクス主義理論家、そして支那の友」とした論考の中でスターリンを追悼した。
 3月9日には、中共は、スターリンを祈念して5分間の静粛を守った。」(上掲)
⇒ルーベンステインや書評子は言及していませんが、スターリンに対する毛沢東の態度は、「スターリンは宿敵である<ヒットラー>を高く評価し、親近感を抱いていたと言われている。<英国>の外務大臣(当時)アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンは<ヒットラー>を賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「<ヒットラー>は欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西<欧>への野心がないことを表明したという。<そもそも、>1934年、<ヒットラー>がエルンスト・レームを抹殺した事を知ったスターリンは「<ヒットラー>とは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だ」とミコヤンに語っ<ている>。・・・<そんな>スターリンは敗者<ヒットラー>に寛大であろうとし、わざと<ヒットラー>の遺体は見つからなかったと宣伝した<ものだ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3#.E3.83.92.E3.83.88.E3.83.A9.E3.83.BC.E3.81.B8.E3.81.AE.E5.85.B1.E6.84.9F
という、ヒットラーに対するスターリンの態度を思い起こさせます。
 「ワレンチン・M.ベレズホフ(Valentin M. Berezhkov モロトフ、スターリン元通訳)・・・は一連のスターリンと<ヒットラー>の交流を<(梟雄同士の(太田))>「残酷なロマンス」と評した。」(上掲)ところですが、独ソ戦が起こる前にヒットラーが亡くなっていたとすれば、スターリンも、毛がスターリンを追悼したような形で、ヒットラーを追悼したかもしれない、と想像したくなります。(太田)
 そして、強制労働収容所の250万人の入居者達の解放過程も開始された。・・・」(E)
(続く)