太田述正コラム#8597(2016.9.8)
<ウィルソン流民族自決の愚かさ(その1)>(2016.12.23公開)
1 始めに
クルド人問題にからめてのコラム#8574での予告を果たすべく、ロバート・ガーウォース(Robert Gerwarth)の『敗北者–どうして第一次世界大戦は終わることに失敗したのか 1917~23年(The Vanquished: Why the First World War Failed to End, 1917-1923)』のさわりを、2篇の書評をもとにご紹介し、私のコメントを付します。
A:http://www.ft.com/cms/s/0/26bb3f60-695f-11e6-a0b1-d87a9fea034f.html
(8月27日アクセス)
B:http://www.thenational.ae/arts-life/the-review/book-review-the-vanquished-exposes-the-bloody-aftershocks-of-the-first-world-war#full
(9月2日アクセス)
なお、ガーウォース(1976年~)は、ベルリン育ちで同市のフンボルト大学修士、そして、本国のオックスフォード大博士、現在、アイルランドのダブリンのユニヴァーシティ・カレッジの戦争研究センター所長、という人物です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Gerwarth
2 ウィルソン流民族自決の愚かさ
(1)全般
「<第一次世界大戦の>西部戦線の砲火は、良く知られているように、11月の11日の11時に静まり返った<(注1)>が、この大戦は、通常理解されているように、1918年に本当に終わったわけではない。
(注1)1918年「11月7日にパリ郊外コンピエーニュの森で休戦協定交渉が開始された。11月11日、食堂車2419D(休戦の客車)の車内において、<中央同盟諸国中の>ドイツ<(直前に成立していたワイマール共和国)>と<協商諸国>連合軍との休戦協定が調印され、11月11日午前11時に軍事行動は停止された。同日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が国事不関与声明を行い、二重帝国も崩壊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
これが、著者によって、彼の挑発的な<この>新刊本で提示した主張だ。
休戦条約(The Armistice)がケリをつけたことは殆どなかったというのだ。
1919年に、あるオーストリアの新聞が「平和の中の戦争」という見出しの下、欧州の状況についての社説を掲載した。
この見出しは誇張ではなかった。
フィンランドからトルコに至るまで、諸戦争、革命、そして、民族的争闘が吹き荒れ、何百万人もが死んだのだから・・。・・・
「異なった諸規模と政治諸目的の武力諸勢力が、引き続き東欧と中欧の全域で衝突を繰り返したため、暴力は遍在しており、夥しい流血の中から新しい諸政府が出現しては消えて行った」、と著者は記す。
「1917年から1920年の間だけでも、欧州では、その多くが潜在的ないし公然の諸内戦を伴ったところの、27を超える政治権力の暴力的諸移転が生じた」、と。(B)
(2)ヴェルサイユ条約の過酷さ
「著者の説明を通じて強力な修正主義的潮流が流れている。
例えば、著者は、ドイツに与えられたところの、ヴェルサイユ条約のいわゆる過酷な諸条件を驚くべき文脈の中に置く。
協商諸国(Allies)から<ドイツが>求められた諸賠償は、ヒットラーが権力を掌握するのを助けたところの、激しい(charged)論争点となった。
しかし、著者は、ハンガリーのケースを考えて見よ、と問いかける。
同国は、それよりも段違いに悪しく厳しく扱われた、と。
(ブルガリアも同様だった。
GDP比において、…同国は、全ての中央同盟諸国(Central Powers)の中で最も高い諸賠償請求書を突きつけられた。)
ハンガリーは、かつて、大きな領域帝国<(注2)>の中心だったが、その戦前の領域の3分の2と人口の73%を失った。<(注3)>
(注2)ハンガリーはオーストリア・ハプスブルク家領に成り下がっていたが、1848年のフランスの2月革命に触発されて3月に始まったところの、ハンガリー革命(1848年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD_(1848%E5%B9%B4) (下の[]内も)
すなわち、「コッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア帝国軍の介入により失敗したが、オーストリアに民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ1867年にキエッジェズィーシュ(和協)が結ばれ・・・、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交《・軍事・財政》を除いて別々の政府を持って連合するオーストリア=ハンガリー帝国となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC#.E3.83.8F.E3.83.B3.E3.82.AC.E3.83.AA.E3.83.BC.E7.8E.8B.E5.9B.BD.E6.99.82.E4.BB.A3.EF.BC.881000.E5.B9.B4_-_1918.E5.B9.B4.EF.BC.89
「大きな領域帝国」とは、このオーストリア=ハンガリー二重帝国中の(オーストリア帝冠領と並列する)ハンガリー王冠領部分を指している。
なお、ハンガリー語のキエッジェズィーシュを、ドイツ語ではアウスグライヒ(Ausgleich)と呼ぶ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%92 (《》内も)
(注3)「1920年6月4日に結ばれたトリアノン条約によ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC
「オーストリア=ハンガリー二重帝国・・・は[1918年11月3日のイタリアとの]ヴィラ・ジュスティ休戦協定により第一次世界大戦に敗北し、同時に国内の内乱と皇帝カール1世の退位の結果解体された。ハンガリーは分離独立したため、オーストリア(第一共和国)とは別に講和する必要が生じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%B3%E6%9D%A1%E7%B4%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9A ([]内)
それに加えて、ハンガリーは、革命、反革命、そして、1919年のルーマニアの侵略、という目に遭った。<(注4)>」(B)
(注4)「1918年10月31日にアスター革命・・・でハンガリー初の共和制国家であるハンガリー民主共和国が成立<するも、>・・・1919年3月、・・・ハンガリー革命<(1919年)>が勃発し、クン・ベーラを首班とするハンガリー・ソビエト共和国(3月21日 – 8月6日)が一時成立したが、ルーマニアの介入で打倒される(ハンガリー・ルーマニア戦争)。
<そして、>1920年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するハンガリー王国の成立が宣言された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC 前掲
(続く)
ウィルソン流民族自決の愚かさ(その1)
- 公開日: